クリスチャン2世の苦しみ
思い返せば、交わしたはずのない約束に縛られ続けてきた人生だった。
結局あなたの喜ぶ顔が見たかったから、ここまで言うとおりにしてきたんじゃないですか。
私は母がクリスチャンで小さい頃から厳しい宗教的教育を受けた。
母以外の家族は浄土真宗の門徒だから、母にとっては彼らは異教徒で、長子である私が彼らの価値観に染まらぬよう母は必死だったのだ。
私は素直に母に従っていた。
良い子になろうとしていたんだよね。
今ならわかるよ。
弟が生まれて、全てが嵐のようだった。
弟はいわゆる手がかかる子どもで、体も弱かったし、自分の思うようにならないと大声で泣き叫んだし、目を離すと何度も階段から転げ落ちた。
弟が大きくなってくると、母は私と弟を比較した。
弟と違って、私は自分に罪があるということがわかっていないと言った。
私は良い子になろうとしていたし、弟は良い子にはなれなかったから、その評価は妥当ともいえる。
キリスト教では、罪を意識することが救いの大切な要素となっている。
自分に罪があるとわかっていなければ救いもない。
結構致命的だった。
でも、あなたに喜んでほしくて、私は良い子になったんじゃないですか。
親の言うとおりにしていたら、罪がわかっていないと言われた。
私にとっては意味がわからない。
転機が訪れたのは大学3年生のころ。
坂口安吾や町田康の小説や、つげ義春のマンガに出会った。
彼らの身も蓋もないあっけらかんとした表現に私は夢中になった。
これが自由ということか、と腹の底から理解した。
彼らの登場人物たちは、日常のしがらみの中でもどこか遠くを見ている。
常識も規範もたどりつけないほど遠くをじっと見据えている。
冒頭のキリンジの歌詞でいうなら、彼らは「交わしたはずのない約束」に縛られてはいなかったのだ。
キリスト教では、上に立つ神の代弁者たちは、否定の文法を多く用いて人を育てようとする。
この傾向は、程度の差こそあれ、ほとんどの教会、ほとんどの教派に共通していると思われる。
そのように育てられたクリスチャン2世の心には、否定されたという苦しみがある。
さて、クリスチャン2世、3世、4世の方々。
今まで、親や教会の人を喜ばせるために、クリスチャンを演じてきたかもしれない。
今度こそはあなたの時代。
自分を喜ばせていいんだよ。
愛されていいんだよ。
自由になっていいんだよ。
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