[ゼミログ]演劇と身体
卒業後のことを考えると不安が尽きないモハです。
早いもので2月に突入してしまいましたが、年明けの演劇ゼミは「演劇と身体」について3週に渡って取り上げていました。私は当初ファシリテータとして振る舞おうと思っていたのですが、議論に私自身の理解が追いつかず大混乱の醜態を見せてしまいました。ログを書きながら振り返りをしていきます。。
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1週目はまず軽めに演劇(など)と身体についてみんなに調べてきてもらいました。
尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク 舞踊の現在/舞踊の身体』からは、舞台上演中の演者の身体が「表現する身体-俳優-メディア」と「表現される身体-劇人物-コンテンツ」の重ね合わせになっているという論が紹介されました。この二つの身体の透明度がジャンルや作品や場面によって変化すると考えられ、この「表現する身体」「表現される身体」が身体表現を観察するときの視点として有用そう、という話になりました。
また、上演と身体にまつわる現象(?)として憑依やトランス状態が紹介されました。バリ島の儀式の一環で行われるケチャや巫女などが話に出ましたが、上記の話に無理やり当てはめると、表現する身体と表現された身体が融合していく…といえるのかもしれないな、と思います。
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2週目は「演劇以外での身体」を調べてきてもらいました。(幅広すぎだったなと反省はしています…)
映画を取り上げてくれたメンバーからは、50-60年代以降のフランスの映画運動であるヌーベルバーグの作品を紹介してもらいました。ドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせる…ような試みであったようですが、超長回しの映像からは演者の隙が見えて、そこから演者自身の身体=「演じる身体」を濃く感じることができました。さらに、無理やりなカメラ移動にはカメラマンの身体も感じるような場面もありました。
このような映像でのだらしなさから演者の生の身体を感じるという事例は、現代に置いてはアニメに対してライブシンクアニメーション、いわゆるVtuberのようなCG生成映像にもあるのではないかという話も出ました。この話はユリイカとかこの人の修士論文とかで出ています。
ラジオドラマを取り上げてくれたメンバーからは、ラジオドラマの収録風景の動画を紹介してもらいました。ここまで身体性を伴うようにして収録されるのはめずらしいのかも?しれませんが、ラジオドラマの場合録音が素晴らしくてもやはり再生環境で聞くときの質が異なってしまうのはもったいないなあと思います…
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3週目にはダンスクリティークからの引用に戻って、「演じる身体」と「素の身体」を調べてきてもらいました。個人的には大反省会で、身体といってもあらゆるお膳立てが考えられそれぞれで性質も既存の論も大きく土俵が異なるというのを理解しておらず…誰の身体?(演者?、観客?)、どこでの話?(舞台?日常生活?対面?非対面?)など、明らかにしながら議論できればよかったなあと思います…それはさておき、、
演劇においては、ブレヒトが異化演劇で素の身体を舞台上に上げようとしたという考え方もできたりはするものの、いかに演ずる身体になれるように演出し振る舞えるかというのが基本的なようです。鈴木忠志さんのブログやSPAC宮城さんのインタビューなどが紹介されました。
「演ずる身体」「素の身体」の観点からいうと、現代口語演劇を含めたリアリズム演劇では完璧に演じることで素の身体であるかのように見せているということができるのかなと思ったり、演目終了後のカーテンコールで素の身体が出てくることが演ずる身体との対比となっていい効果(?) を出しているのかもな、と思ったり…(私が)
舞台外の日常生活においての身体を「演ずる身体」「素の身体」の観点から考えると、日常がいつも素の身体ではなく、社会生活の一員としてなんらかの自分を演じているという考え方ができます。日常生活を「演劇的である」というように捉えたものとして、
などが紹介されました。
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全3回の「演劇と身体」では、演劇上演での主に演者の身体がどのように振る舞いどのように捉えられるかについて、たくさんの例とともに話すことができました。
ファシリテータがへっぽこだったため、みんなが優しく文献をボコスカ投げてくれる優しい回になりました。こんなかんじですが、SFCなどに在籍していて演劇を研究的な観点で見てこんな感じで話したい学生さんなどがいたらご連絡ください。