平野智紀「戸田とヘダ号と赤松則良」(6日目)
この日は友人の車で沼津の南端、戸田(へだ)に行ってきました。戸田は西伊豆の小さな漁村で、平成の大合併のときに沼津市と合併しました。
雨模様のため富士山は見えませんでしたが、漁港から望む御浜岬(みはまみさき)が美しかったです。この地域はタカアシガニなどの深海魚で有名です。タカアシガニのランチを考えたのですが、15,000円するそうであきらめ。タカアシガニって高級なんですね…
そんな御浜岬の先端にあるのが、戸田造船郷土資料博物館です。幕末、安政の大地震でロシア船ディアナ号が沈没したため、ロシアのプチャーチンは戸田村の船大工らとともに西洋型船を新しく造船しました。当然ながら、ロシア人と日本人の船大工は言葉が通じず、使っている単位も異なっていましたが、100日後に船は完成し、ヘダ号と名付けられました。
(上の写真は「道の駅くるら戸田」にて)このとき日本にもたらされた西洋型船の造船技術は、日本の造船技術の基礎になるとともに日露友好の証にもなったようです。
なお、日本の造船の父と呼ばれる人物の一人が、西周・榎本武揚らとともにオランダへ渡り、その後沼津兵学校の教授・頭取を務めた赤松則良(あかまつ・のりよし)です。ヘダ号の船大工の中には、赤松とともにオランダ留学した者もいます。赤松はヘダ号の一件のときはまだ十代でしたが、見聞した折にロシア船の大砲の大きさに驚いたそうです(『赤松則良半生談』に記述があります)。
(上の写真は、沼津市明治史料館の展示より)西・榎本・赤松は婚姻関係により義兄弟の間柄にあります。歴史を紐解いてみると、あるときサブキャラクターだった人物が突然メインキャラクターになったりして、群像劇みたいでおもしろいです。