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平野智紀「西周は沼津に総合大学をつくりたかった」(3日目)

西周(にし・あまね)と沼津兵学校の歩みを知るべく、沼津駅からレンタサイクルで、沼津市明治資料館に伺ってきました。(トップ画像は、沼津市明治史料館(2014)沼津兵学校とその時代, p.20より。前列右端が西周。沼津駅前のレリーフは、この頃の西周をもとにしていると思われます)

徳川家は、1867年「王政復古の大号令」により、天下の大将軍から遠江駿河を治める一大名へと立場を変えることを余儀なくさせられました。そんな徳川家が時代の求めに応じる形で、近代的な士官学校として設立させたのが沼津兵学校です。初代頭取(校長)として、幕末にオランダに留学していた西周が任ぜられました。

なぜ沼津だったのか、ということですが、静岡の中でも駿府から離れており新しい取組をしやすかったこと、東京に近く陸路海路の便がよかったこと、などがあったようです。

西周は、自身が留学していたオランダのライデン大学を範とし、武官だけでなく文官を輩出する総合大学として、沼津兵学校を発展させたかったようです。実際、明治二年には沼津兵学校から「兵」の字を除いて「沼津学校」とすることを構想していました。しかし、当時の明治政府が武官を大量に求めたこともあり、構想は実現しなかったようです。

沼津兵学校は、戦国時代に建造され江戸時代に再興された沼津城の跡地に造営されました。沼津時代の西周が居住したのは、今で言うイーラde沼津の片隅、南口と北口をつなぐ「あまねガード」の南側でした。

西周はわずか1年11ヶ月で沼津を去っています。総合大学をつくりたいという思いは強かったと思いますが、沼津への思い入れは必ずしも強くなかったと思われます。沼津兵学校が短い歴史を終えた後に沼津に残ったのは、今でも地域の偉人として称えられる江原素六(えばら・そろく)のみでした。沼津市明治史料館は、江原素六の旧居の上に建てられています。

ところで、西周と同時期に榎本武揚(えのもと・たけあき)がオランダに留学していたことを、冒頭の写真で知りました。榎本武揚は旧幕府軍のリーダーとして箱館戦争を戦い、最後は投降し、戦後は蝦夷地=北海道の発展に尽くした人物です。沼津兵学校が成立した時代の裏側で、まさに箱館戦争がありました。沼津兵学校には、必ずしも薩長に同意しないバンカラな空気もあったようです。

私は静岡県出身で今は函館在住ということで、このあたりもう少し調べてみたいと思います。

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