佐野風史 / 早田仁知 「[ço̝ːʑɯ̃ŋːo̝ʔ] (2日目)」
みなさんこんにちは、昨日から静岡県の白須賀周辺を探索している 佐野風史 / 早田仁知 です。
私たちは、「音象徴」を切り口に、聴こえてくる音を言語音に変換すること、そしてその音(おん)を再構成したときに立ち上がる情景を探究するPhonoscape Projectという活動をしています。例えば水の音が聞こえてきたらそれを聞こえたように口で表してみる。「ぴちゃぴちゃ」というような音。そしてその言語音を再び聞いたときに水のイメージが湧き上がってくる。これが音象徴です。
今日からのnoteは交代交代で書いていくつもりでしたが、街探索から帰ってきて今日のことを振り返って話し合っていたら盛り上がってきて話が盛りがあがって話が盛り上がったのでその方針はやめました。
そしてなんやかんやで、今日のnoteは、再び、2人で共同編集しながら書いています。
それでは、ここから下は、今日は振り返って気づいた「標準」語のお話。
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今日はまず、新居の町案内から一日が始まった。江戸時代の頃の地図を、そのまま今の町の地図にすることが出来ることとか、町が京都の街みたいに碁盤の目状になっていることとか、小さなお寺がたくさんある場所があるとか、面白い話が沢山聞けた。街の中に、小路(と書いて「しょうな」と読む)という細くて小さな道が沢山あり、かつてはそれぞれの小路に名前がついていたという話も興味深かった。
その中で最も印象に残っているのは、町おこしのために作られた曲の歌詞だけが残っており、三味線の伴奏や歌の旋律は残っていない、という話である。全て口頭伝承だったため、伝承がもう途絶えて誰も覚えていないみたいである。現在生きている人の頭の中にはもう流れない旋律や伴奏があったと思うと、少ししみじみするというかさみしいというか、そんな感じの気持ちが沸き起こった。残っている歌詞を使って、当時の音楽を頑張って再構築したり、新しくメロディーをつけたりすることってできないかな?とも考えてた。
新居の案内が終わったあとは、白須賀の案内をしてもらいにいった。白須賀を車で案内してもらった後、受け入れホストのシラスカリフォルニアの方々と、同じタイミングでMAW2024白須賀滞在の山田さんと、私たちと、で車内で少し方言の話になった。その時誰かが「(静岡とはいっても)なかなか方言は出てこないですねぇ」というようなことを言っているのを聞いている時、佐野は「(´-`).。oO (いやめちゃくちゃ遠州弁でてましたよ)」と思っていたようだ。
早田にはあまり方言に対して意識がなく(個人的には神奈川県の方言を喋っていると思っているらしいが)、遠州弁に気付くことすらできなかったが、幼い頃に遠州弁に触れていた佐野には内省的に遠州弁に気づいたようだ(すごい)。
一日を終えて宿泊所で二人で話していると、「標準語」について議論が巻き起こった。佐野がみんなの方言を引き出したいのであえて「明日は標準語じゃなくてもうちょっと関西弁で話そうかな」といったところに、早田が「いや、標準語って人工的に整備された言葉だから今日話してたのも標準語ではないと思うよ」と返したところから話が始まった。
佐野は子供の頃、京都から神奈川に引っ越してきてきたときに言葉の変化に少し戸惑いがあった経験があり、当時から方言や言い回しなど周りをよく観察していた。今回ここで「標準語」と言っていたものは、全国区のニュースアナウンサーが話している日本語を指していたようである。これは早田のいう、「人工的に整備された言葉」という定義にも合致している。
話を続けていると、「人工的に整備された標準語をそのまま話せる人はいないよね」という流れになった。全ての人の言葉それぞれには(無意識であっても)方言的な特徴があって、その特徴が言葉に現れてしまうのはほぼ避けられないから、その人が「標準語」を話していると認識していても、その「標準語」は純粋な標準語にはなり得ない、というはなしである。世界中の人が同じ英語を話しているようで、日本語を話す人の英語は、日本語の特徴の影響を受けてしまうこと(=ジャパングリッシュ)と同じだ。
全国区のニュース番組で使われている標準語は、人工的に整備された言語、いわば人工言語になる。まあ「標準」語という言葉が芯をついた表現なのかは少し戸惑うところもあったが、考えてみると、様々な地域から来ている人たちが集まったとき、私たちは無意識に「標準」的な何かに自分の方言を近づけるようにして話しているのではないか?(実際に話している自分たちは標準語を話せていると思い込んでいる)。冒頭で話した、「なかなか方言はでない」という発話に方言が出てしまっているということが、その裏付けである。
今日の様子を観察する限り、方言といっても、特徴的な言葉遣いがあるというよりは、アクセントのつけ方に特徴がでていた。ここから、日本語のアクセントの話に…。日本語には高低アクセントがあり、何種類かに分類することが出来る(大きく分ければ2~3つ)。(補足しておくと、アクセントとイントネーションは全く違うもの。アクセントは単語にある音の下がり目のことで、イントネーションは文全体にかかる抑揚のこと。)
関東の人が関西弁を真似すると「エセ関西弁」(逆もまた然り)になるのは、近畿の方言の京阪式アクセントは、単語の中の音の下がり目だけでなく単語の始まりの音が低く始まるか高く始まるかも区別するから。一方で、関東の方言の東京式アクセントは、単語の中の音の下がり目だけしか区別をしなかったり、日本語には「無アクセント方言」という方言があって、それはロボットみたいな喋り方じゃなくて、音の下がり目が単語の中にどこにもないだけだったりする(「なっ↓と↑う↓をたべた」ではなく「なっ↓と→う→をたべた」みたいなのが無アクセント」)。
そんな話をしているなかで、アクセントそれ自体にも音象徴があるかもしれないね、というアイデアが生まれた。「び↑ちゃ↓び↑ちゃ↓」というより「び↓ちゃ→び→ちゃ→」というアクセントの時の方が不快感のある濡れ方のイメージを想起させるかもしれない、という、そんな感じのこと。
言語音の音程の高低が、音象徴に関係してくると、僕らのPhonoscape Projectの取り組みも、更にひろげていけるんじゃないかなーと、そんなことを思った。