![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154009004/rectangle_large_type_2_cd172942a3b2df79f94f033363ecea38.jpeg?width=1200)
今宿未悠「滞在まとめ(清水町)」
滞在から一週間が経ち、私は元の暮らしの中に徐々に馴染みつつあります。一週間。たった一週間のはずなのに、私は清水町での滞在の日々を、ずいぶん遠くから眺めている気持ちになります。
水に浮かぶとき、人のからだはどうにもおぼつかなくなり、感覚はゆったりと私に届くようになります。水の中に潜れば音は籠るし、動きは遅くなる。
三島での滞在は、まさに水に浮かんだり、もぐったりしている感覚を私にもたらすものでした。
フィクションみたいに台風がずっと停滞しており、毎日のように豪雨で、その中にあってサンダルで、あるいは裸足で街へとでかけ、ずぶ濡れになって、熱を出したり、眠り込んだりしながら、あっという間に日々は過ぎていきました。一人でさまざまな場所へ出かけるあいだ、雨がアスファルトや葉っぱに叩きつけたり、湧水が轟々と沸いたり、用水路が溢れかえったりする、その水の大きな音が、ずっと頭の中に響いていました。
滞在中、何度か、次のような言葉を耳にしました。
清水町は水が豊かで、海産資源も豊富。みんなその豊かさに無自覚で、周りの人にその豊かさを分け合いながら生きている。
豊かさに対する無自覚。ゆえに、共有する。
よく、自然環境が過酷な地域においては人は協力せざるを得ず、ゆえにコミュニティが発達したのだという話を聞きます。でも清水町はその真逆で、豊かすぎるがゆえにさまざまなものが余剰し、それを人に分け合いたくなる、と。これは人間の美しいサガなのかもしれません。
私にとって、言葉は余剰なのかもしれない。
ふと、そのような思いが湧き上がりました。
私は一人でいる時、永遠に頭の中で、あるいは声に出して、ぶつぶつ何かをしゃべっています。自転車に乗っている時なんかは、大声で喋ります。通行人がこちらを見てギョッとしますが、それでもお構いなしです。あるいは、ノートを常に持ち歩いていて、何でもかんでも書き付けます。
それはなぜか。言葉が脳の中に溢れていて、それを外に出さないと、どうにもキャンセルできない。内側に溜め込んでいるとあまりにもうるさくて落ち着かないのです。だから私は言葉を出している。それは何か真っ当な表現欲求というよりも、必要に駆られて、いるのかもしれません。
清水町にとっての水は、私にとっての言葉なのかもしれない。
しかしながら、水がわかりやすく人の生命に資するのに対して、言葉は、果たしてどれくらいの人の生命そのものを養うことができるのか、そう考えてしまう自分もいます。
これからも言葉の持つ力、水の持つ力、それによって関係づけられる人々の在り方について、考え続けたいと思います。
お世話になり、ありがとうございました。また会う日まで。