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私道かぴ「富士山から見た我々は(7日目)」


山が噴火して、冷えて固まり土地ができ、人が訪れ住み着いて、道を通して交流が生まれ、脈々と文化が育まれている。御殿場の歴史をざっと要約するとしたら、こんな具合だろうか。そう考えると、すべての始まりである富士山のこと、その信仰のことをもっと知りたいと思った。

滞在最終日。やっと晴れた今日は、朝一で馬さしをピックアップしに武藤精肉店へ。馬ハツというのがあった!ので追加で購入する。店には続々とお客さんが来て、みなすごい量の馬を注文している。勢いよく入ってきたおじさんが「焼き豚300(グラム)!」と開口一番に注文していた。焼き豚もおいしそう。見ると馬のほかにも牛や豚、羊なんかも扱っている。このお店が近所にあったら幸せだろうなと思う。もうすっかり舌がこの馬さしの虜なので、きっとまた来るだろう。「持ち歩き時間が長くて」と告げ、でっかい氷を入れてもらった。

早足で荷物をピックアップして駅へ。今日も御殿場駅には富士山を目指す外国人観光客がいっぱい来ている。研修なのか、スーツ姿の団体もちらほら。横目で見ながら、足早に列車に乗り込んだ。
昨日御殿場をまわっている最中に、「富士山世界遺産センターに行かなきゃなと思ってるんです」と話すと、Kさんはこう言った。「あそこは大きいね。スロープがあってぐるっと回りながら映像を見る形で、まるで富士山を登るようになっているんですよ」。
なので最終日の今日は、富士宮に行くことにした。

一週間分の荷物を引きずりつつ乗り換えをするのは、なかなか負担になるなあと思いながら車窓を見る。向こうにでーんと大きな山がある。富士山だ。荷物が負担だと言うものの、列車が走る以前に比べたらとんでもなく楽だろう。荷物を運ぶ、というのは結構な重労働だ。米や作物、塩に木炭…荷を引いて運ぶ仕事をしていた人はすごいなあと思う。そういった人々も、重い荷物を馬に引かせながら、時に自ら背負いながら、東海道を行くときに富士山を見ただろうか。

車窓に、畑仕事をしているおばあちゃんたちが見えた。祭りの時に聞いた「来てくれてありがとうだよー」「嬉しいだよ」というしゃべり方が思い出される。静岡の方言なんだろうか、すごく好きだ。
身延線という名称や、「富士根」「入山瀬」など富士山に関係ある名前で構成される駅名をおもしろく見ながら過ごしていると、とうとう富士宮に着いた。荷物をロッカーに預けて富士山世界遺産センターを目指す。

途中の踏切に「ペニー紡績踏切」という名前が付いていて、なぜだろうと思って振り帰ると後ろに巨大なイオンモールがあった。紡績工場の跡地はおおよそイオンになっているので、ここもそうなのだろう。周辺にはほかにも宿や写真館などがあり、昔のにぎわいを思わせた。富士山本宮浅間大社への参拝の人が泊まったり、お宮参りの記念写真を撮ったりする様子を想像しながら歩いていると、突如巨大な建物が現れた。

さすが世界遺産登録されただけある、経済の潤いを感じるたたずまい。
受付で入場料を払っていると、「登拝ガイド」という表示を見つける。何かはよくわからないものの「これってお願いできますか?」と聞くといいですよ、との返事。所要時間20分と書いているので、さくっと展示のさわりだけ説明してもらえるのだろうか。「そのあたりで待っていて下さいね」と言われたので立っていると、「どこからお越しですか?」と聞かれる。どこから…?「御殿場…?」と疑問形で返してしまった。そのうちにガイドの方が現れた。「じゃあ行きましょうか」と歩き出した円形のスロープは、思っていたよりずっと勾配がきつい。御殿場ガイドのKさんの言っていた通り、展示の前半は来館者が「登拝」の疑似体験をする形式になっていた。登拝とは、ざくっと言うと信仰の対象として山を登ることらしい。途中で止まりながらぐるぐると登っていくスタイルで、説明が始まった。

ここは世界遺産登録から4年目にできた施設で、今年で11年目になるそうだ。富士山級の山は世界のほかにも数々あるので、世界遺産の中でも富士山は「文化遺産」として登録されている。富士山という山にまつわる信仰、芸術などの観点で評価されているということだ。登録のための要素は25か所あって、その半分以上は山梨県にあるらしい。山梨にも富士山世界遺産センターがあるが、そちらは物の展示が多く、こちらは映像展示が主だという。俄然山梨にも行きたくなる。山梨の方が登録箇所が多いのは、江戸から近かったからなのではという説に、なるほどなあと思った。一度行った人が「めっちゃよかったー富士山」みたいなことを言い、それを聞いた人が登り、また違う人に言い…当時から口コミの力は絶大だったのだろう。江戸時代に大流行していた富士講だが、一度行くのには8~9万円ほどかかったらしい。江戸からは行き4泊5日、帰りは3泊4日ほどだったという(帰りの方が短いのは下り坂のためか)。

スロープを登りながら、壁のスクリーンに投影された富士山のイラストや写真を楽しむ。上に行くにつれて少しずつ頂上に近づいていく仕組みだ。
「5合目までは道路があるから車で行けます。この辺りはまだ草木も茂っていますよ」。森林限界、という言葉が印象的だ。ガイドの方(以下Hさんと呼ぶ)は今まで二度富士山に登っているらしい。だがもう三度目は登りたくないと言う。「特に6合目からがキツい。岩場がゴツゴツしてるから登りにくいし、7合目はかなり寒くなってくる。真夏でも5度、雨が降ると0度」。夏場だから雲もよくかかって眼下の景色なんて見てる暇ないよ、という言葉に笑う。
途中で富士曼荼羅図を見ながらあれこれ話す。富士山もかつては女人禁制だったのだが、明治以降にOKになったと言う。その理由が「開国して博覧会を開いた時に、大体外国から夫婦で来るよね、その時に夫婦で富士山登りたいって言われて、まあNOって言い続けられなくなったんだね」。なんだその情けない理由は…。

頂上に近づくにつれて映像展示はなくなり、あとはさーっとスロープを足早に登って終わった。頂上はホールのような広場になっていて、目の前にはガラスの向こうにどーんと富士山が見えるようになっている。ここ一週間はほぼ雨でその全体像をつかむことが難しかったので、シルエットだけでも「うおーでかいー」と結構感動した。しかしHさんはいつも見ているからか、「今日は雲がかかってて残念だけども」「見えるときはもっと綺麗なんだけどね」を連発していた。外側に出ると町の風景も一望出来てなかなか壮観だ。
よく見ると富士山の右斜め上に向かってリフトのようなものが伸びている。「あれに沿って登るんですか?」と聞くと「あれは電線です」という。なんでもここは東北電力の西の端だそうだ。「たまにお客さんに『写真撮るのにあの電線が邪魔だ』って言われるんだけど、あれ取っちゃうと私たち地元住民はTV見れなくなっちゃうから」と笑う。
Hさんは富士宮生まれ富士宮育ち、会社に勤めていた頃は仕事の関係で海外にいたこともあったそうで、今のボランティアの仕事にぴったりだなと思った。気づけば話している空間には海外のお客さんばかりになっている。

聞くところによると、Hさんは実は浅間神社の方のガイドらしく、センターのガイドには月2回程度しか入っていないそうだ。神社の方が詳しいんだよと言う。「浅間神社の宮司は、交代で頂上の奥宮で勤務するんだけど、たまに頂上で亡くなる人に出くわすんだって。火口付近で写真を撮っていて、柵も何もないから足を滑らせて落ちてしまう。大体が即死。夜に落ちたら、たとえ骨折で済んだとしても、這い上がれなくて凍死してしまう。県の救助隊がパーティ組んで助けに行くんだけどね、5合目から徒歩で上がることになるし、ヘリの着地できるところがないから結局救助まで3時間くらいかかる。毎年、そうやって亡くなる方が何人かはいますよ」。火口は結構な高さがあるそうで、考えるだけでぞっとした。
「中にはわざわざ富士山を死に場所に選ぶ人もいる。富士の樹海もあるし、昔から【人は死んだら富士山に登る】と言われているように、そういうものを目指して来る人も一定いるみたい」。

実は…と御殿場で滞在していた旨を話す。すると、「陸上自衛隊の基地、御殿場に作る前は富士宮が候補地だったって知ってた?」と言う。「富士宮が断って御殿場になったんだよ」。当時御殿場は富士宮以上にこれと言った産業がなかったそうで、「だってここよりあちらの方が2~3度気温も低いしね」と話す。そう聞いて、ここ数日考えていたことを口にした。
「御殿場に来るとき、どうして信仰のある【聖なる山】のふもとに基地を作ったんだろうって不思議だったんです。修行の地に基地を作るのって許されるのかなって。でも、皇族や政治家の別荘を見るにつれ、ああ、これ聖なる山のふもと“だからこそ”基地を作るのにうってつけだったんだろうなって思えてきて」。
すると、Hさんは「そうだと思いますよ」とさらりと言った。
「富士山は日本人の精神のよりどころだからね。神風や特攻を謳ったように、日本人は短期決戦が得意で、昔から神の力を信じるとか、精神力みたいなものを大切にしてきたから。近くで国防の訓練をするのはやっぱり意味がある。そういう点で言うと、富士山周辺には昔からいろんな新興宗教も集ってくるしね」。
聞けば、オウム真理教の拠点も人穴の浅間神社の方にあったと言う。近所の人は白装束で歩く信者の姿をよく見かけたそうだ。「富士山も罪だなあって思うんだ。単独の山だし、連なってないでしょう。ひとつでどんと立っていて、威厳があるように見える。【富士の裾野で安らかに眠りなさい】って言われると、ハイってなっちゃうんだと思うよ」。

それを聞きながら、私は「富士山を神々しく撮った映像」や「やたらと神聖化するナレーション」に対する違和感の理由を知った。そうか、富士山は、人間が利用しやすい山なのだ。

20分だったはずのガイドで結局90分も喋ってしまった。ざっくばらんに色々とお話していただけてありがたかった。雲がもくもくとかかってきた富士山を見ながら、お礼を伝えて別れ、ひとり展示の流れに乗る。富士山信仰の現場や祭りの映像、芸術作品への転用の仕方を学びつつ建物を下る。途中、戦時中によく用いられた「富士の背後から光が指す」モチーフを見ると、やはり胸がざわついた。

しかし、最後の部屋でその印象は変化する。それは映像シアターでのことだった。富士の姿をドローンで撮影した映像は、ナレーションはないものの先日樹空の森で見たものと似ていた。ただ、終盤に富士山の頂上近くから土地を見下ろすように撮られた映像に、目が釘付けになってしまった。

それはまるで、富士山側から、私たちが住んでいる土地を見たような映像だった。富士山から見た地面は、ぼこぼこだった。隆起して、凹んで、いくつもの穴が開き、所によっては水が溜まって湖になり、急な斜面では滝になる。その様子を見ながら、「富士山から見ると、我々の世界はなんてちっぽけなんだろう」と思った。

ぼこぼこと上下する地面の上に、人が住み、その小さな身体で土を耕したり、家を建てたり、橋を渡したりしてなんとか工夫し生きている。時折、そんな人々が自分を見上げては祈り、笑い泣きを繰り返す。噴火しなくなった山肌を、一定の人数が登ってくる。自分を目指してやってくる。
富士山からすれば、そこには信仰も思いも何もないだろう。しかし、頂上からはずっとその景色が見えていたのだ。戦争やら、政治やら、信仰やらいろいろなことで人が忙しく争っている時でも、富士山から見れば、人間のそのちっぽけな営みは変わらず脈々と続いていたのだ。



センターを出た後、浅間神社で散歩する人や、犬や、泳ぐ鴨、商店街の営みがこれまでより一層まぶしく見えた。

旅の最後に富士宮に行けたことで、もうひとつ大きな観点から御殿場での生活を振り返ることができた。この「山の静岡」の振り返りは、まとめの記述に譲ることにしようと思う。

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