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鈴林まり「家が開かれ、物語として目覚めるとき(1日目)」

沼津市白銀町
Artspace入サ岩﨑商店さんへ到着

来てみれば8ヶ月ほど前、
舞台のツアーで滞在したホテルから歩いて10分ぐらいの距離だ
あのときは狩野川をわたって市民文化センターに通っていたから
反対方向のこっちへ歩くと何があるか、まるで知らなかった

迎えてくれた佐々木千彩美さんはこのビルで
畳の材料の問屋さんを営みながら上で住んでいたお家のご子息で
閉業して空き家になっていたここを、
夫の勇希さんとアートスペースに変えて動かしている

「最近、剥製って見ないですよね」
そう千彩美さんが言った

泊まらせてもらう3階の和室の床の間に鳥がいる
ここは本家だったそうで、
人がたくさん集まったときに寝られるよう
広い部屋になったそうなのだ

この鳥、「雷鳥の里」のパッケージの絵に似てるような気がするけど名前のわからない鳥は、
長い間この家にいて、すべてを見てきたのだろう

8ヶ月前、沼津で上演したのは『伊豆の踊子』で
川端康成から受け取った視点はいくつかあるのだけれど
「末期の眼〔まつごのめ〕」の話は、
家系とアートという、一見するとランダムな位置にある話題をあっけなく直列につなぐ

生活の場で継承し、保ち、ある種たくわえてきた文化が、芸術として花開くタイミングがあるというのだ
末期となっているのは家系が閉じる代を自覚した川端自身の境遇を反映しているのだけど、その条件に限定されないポテンシャルを私は感じている
ここのケースではちょうど、閉業が出発点になっているけれど

剥製ってめずらしいですよね、ではなくて
「最近、剥製って見ないですよね」と聞いて私もうなずいた

かつてはめずらしくなかったけれど、今はめったに見ない、ここが重要だ
息の長さは、新鮮さを培う

わざわざ美術館に保存されない種類の、無形文化財の形にもならない文化が
暗記ゲームみたいにずらずら積み重なって保管されていて
どの時点の痕跡も今、空間に一斉にある

そしてあるとき“場所を読む子孫”が現れるのかもしれない
読むとは、文脈を描くことを意味する

じっさい、今はアートスペースとして生まれ変わったこの空間は
佐々木さんご夫妻が時間をかけて片付け、整備することで
居心地を引き出されたのだと思う

継承とはなにも血縁にかぎらないけれど、
幼少期からつながってきた立ち位置がもたらす恵みは大きい

家が読み解かれ、外に開かれるのはどうしてだろう
機が熟して、オープンソースになる

レヴィ=ストロースが発見したのは、
まず親族があって婚姻を始めたのではなく、
婚姻というコミュニケーションを行うために、親族集団の輪郭が必要になったことだ

そして神話は、ローカルの枠を超えて変換を重ねながら旅をして
主題の葛藤が象徴的に調和を迎えた地点で、止まるのだという

それぞれの場所で語り継がれる物語は、そこに住む人々を支える
その役目を具体的に果たしながら、広大な世界の、人間の心のために転がっていく大きな物語がある

家、親族、地域の輪郭と、コミュニケーションについて
到着日に見つけた観点と、予感について記しました
この先どうなっていくか、続きも読んでいただけたらうれしいです

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