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山中カメラ「しずおか富士山音頭」(まとめ)

私は日本各地から依頼を受け、その土地に滞在しながら地域の新しい「盆踊り」を制作するということを仕事(作品)として活動しています。
コロナ禍になって2年、人が集まる「盆踊り」自体が出来なくなり、自分のアイデンティティーを失いかけていたのですが、
人と会えないコロナ禍だからこそ、「盆踊り」について深く考えるきっかけとなり、
「盆踊りとはもう会えない人と何とかして会って、一緒に踊りを踊る事」
という重要なコンセプトを改めて認識することが出来ました。
これは私の制作に非常に大きな影響をもたらし、コロナ禍でも郵便と想像力を使って(会えない人と逢うための)盆踊りを行うという私にとって非常に重要な作品を作ることが出来ました。

今回のマイクロアートワーケーションは自身の富士山への憧れもあり、
なぜ日本人は「富士山」というものに特別な感情を抱くのか?

恐怖の対象でもある活火山を「美しい」「近付きたい」と感じるのか?

私がそう思ったように、「富士信仰」「富士講」など富士山に近付きたいと願った先人たちの願いや思想に詳しい方にお話を聞いたり、富士山を体全体で感じ、
実際に「しずおか富士山音頭」を制作すると仮定して、いつも私が他の地域でやってきたような音頭作りのプロセスを実行して富士山に対する「思い」の部分を自分なりに解釈したいという思いでこのマイクロアートワーケーションに望みました。
その富士山に対する憧れや思いの中にウィズコロナ、アフターコロナ時代の自分の制作のあり方のヒントになるような気付きが得られることを期待し、7日間を楽しく過ごしました。

沢山の資料を見たり読んだり、沢山の静岡の方から富士さんに関するお話をお聞きすることが出来、短い期間ではありましたが、「富士山」を多角的に知る事が出来ました。
そんな様々な事柄を踏まえた上で、富士山の「名前」について調べたときに、私の求めていた答えが見つかった瞬間が訪れたのです。
「富士」という名前には象徴的な3つの異なる別の漢字が存在します(この他にも諸説あり)。

「不死」死ぬことがない
「不二」唯一の、二つとない
「不尽」尽きることのない

富士山とかぐや姫の伝説に象徴される「不死」(※5日目参照)。
富士講、富士山信仰の登山者が富士山の御利益を皆に分け与えたように(※3日目参照)。
私がなぜ富士山を美しいと感じ、憧れ、近付きたいと思ったのか?

それは私自身も不死、不二、不尽の「富士山になりたかったのだ」と気付きました。

太古からの富士山信仰、ひいては人間の祈りや願望の中にも上記3つの「ふじ」(富士山になりたい)に代表される根源的な願いがある。と自分なりに解釈しました。
有限の命を持ち、運命に翻弄される私達人間はもちろん「富士山」にはなれない訳ですけれども、
自分の力ではどうすることも出来ない「祈り」が、「願い」が、富士登山という信仰、文化(行為)に結びついていることがとてもとても美しいと感じました。

現在、沢山の富士登山者の中にこのような信仰を抱いている方は極少数だと思います。
レジャーとしての登山という「行為」だけが残り、「信仰」の部分は忘れ去られていますが、確実に私達の心に確かに存在しているものだと思います。

「しずおか富士山音頭」(あくまで架空)を作る際はこの事を一番のテーマに据え、何も意識せずに踊りを踊っても、富士山を擬似的に登頂するような仕掛けにして、更に自身の願望を成就出来る(願える)ような歌詞や音楽にしようと思いました。(それを考えるには一週間の調査では足りない!)
このことは今後制作するであろう、自身の音頭作品の永遠のテーマになりました。

関係者の皆様
正式な「しずおか富士山音頭」制作依頼お待ちしています。

静岡の皆様
この度は貴重な経験をさせていただき誠にありがとうございました。

現代音頭作曲家
山中カメラ


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