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わたしの好きな字書きさん

「文章が好きだ」と言いながら、わたしはほとんど小説を読まない。芥川賞とか直木賞とかその他諸々、書店に推される話題作にもだいたい興味を惹かれなかった。
 おそらくわたしが物語のストーリーをそれほど重視していないのが原因だろう。わたしは小説を読んでいるとき、登場人物の波乱万丈な人生を追うのではなく、その端々で飾られる美しい文を掘り探している感覚だ。
 例えば作家がふと何気ない1行に、わたしの文章的嗜好ど真ん中を貫く文を入れてきただけでその作家のファンになれる。何度も何度もその1行を読み直しては、先に進めなくなってしまう。

 稀に書店で買うときは表紙の雰囲気とタイトルだけで「好きそうかどうか」を判断し、少しだけ試し読みをした。その感覚がわりと良ければレジへと進むし、普通だったら首を傾げて迷いながらも陳列に戻す。
 素人のくせに生意気だ。だけどわたしはこの直感を今まで1度も外してしまったことがない。


 河野裕『いなくなれ、群青』は高校生の頃、図書室で借りてたった1回しか読んでいない本なのに、未だによくよく覚えている。
 確か「彼女があまりにまっすぐなせいで世界の全てが歪んで見える」みたいな雰囲気の文があって、当時のわたしはそれにものすごく惹かれていた。シリーズものの本なのでいつかちゃんと読破したいと、ずっと欲しいものリストの中に入れてある。

( 続編記事:思い出せ、群青


 柴崎竜太『三軒茶屋星座館』は2019年の冬、わたしが最後に買った小説。わたしは書くときも読むときも「普通に思いつける普通の言葉」を大事にしているのだが、この物語には至るところに“普通”が散りばめられている。

幸せが試されるまでの記憶を、僕らは幸福って呼ぶ。

 大学の図書室で読んで1人で頭を抱えた。「普通に思いつける普通の言葉」で普通のことを、如何に美しく描写するのか、如何に“エモい”と感じさせるか。読みながら何度もスマホのメモを開いて、逐一書き残していった。
 これもシリーズものなのでいつか改めて再読しながら読破したい。そう思ってから早くも既に2年強。頑張れわたし、あと2冊。


 あと作家ではないが、文月悠光という詩人も好きだ。Instagramでたまたま拾った詩「冬の連弾」。果てなく広がる雪の景色をピアノの白鍵に例えて綴った冬のうた。

これは冬の連弾ね。
見渡すばかりの白い鍵盤と
あまりにちいさなふたりの足跡。

 雪の中の逍遥をピアノの連弾に重ねるセンスに惚れてしまった。詩集を買ったり、とかはまだ上に倣ってできていないけど、以降ちょくちょく更新がないか覗いている。


 わたしが好きなのはどちらかというと純文学に近しいほうのものなんだろうか。大衆小説はストーリーによる娯楽性を重視しているが、純文学は文学性や芸術性に重きを置く。
「読者の娯楽的興味に媚びず」といった点では、わたし自身の書く文章にも似たようなものを感じられた。小説なんかを書いたとしても話の展開ウンヌンよりも、そこに付随する情景描写と心情描写に異常な時間を費やすし。

 そう考えると「雰囲気で選ぶ」「不意の1文に惹かれる」というインプット法は、わりとわたしに適したものなのかもしれない。
 電子版でも買って読みたいところだけれど、とりあえず今日は終わってしまった春休みたちを弔おう。間もなく授業が始まります。


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