たりなさと向き合い、その先へ
今年の4〜6月に観ていたドラマ『だが、情熱はある』にひどく感銘を受けた。
そこから若林正恭さん(以下:若林さん)のエッセイを読み、『だが、情熱はある』の主人公でもある「南海キャンディーズ」山里亮太さん(以下:山ちゃん)と、「オードリー」の若林さんによる漫才ユニット「たりないふたり」の創ったものにも興味を持ち、過去作を遡ることにした。
1ヶ月以上かかったが、2012年の『たりないふたり』から観始めて、2021年に『明日のたりないふたり』で解散するまでを順を追って観た。
2014年の『もっとたりないふたり』や『たりふた SUMMER JAM '14 ~山里関節祭り~』くらいまでは青さと若さも感じつつ、芸として純粋に面白く、即興でそこまでやれるのか!という胆力を見せつけられては尊敬し、烏滸がましくもなんだか愛おしいと感じ、とても好きだと思った。
そして間が空いて、2019年の『さよなら たりないふたり』では、ふたりの人生そのものが炙り出されていた。それまでも「たりないふたり」は、自分自身ではなかなか直視し難い部分を直視して、それを芸として昇華し表現していた。だけど『さよなら~』ではそれを更に上回るほどに、自分が今後芸人としてどのように進んでいくべきかという悩みや、芸の枠には収まり切らない現在進行形の率直な迷い、そして漫才の中での本気のやり取りだからこそ引き出された覚悟などが、爆発していた。
はじめの内は、若林さんが暴走して、山ちゃんがそれを上手くツッコんでいく、というまっすぐな構図に見えていた。しかし年次が重なるにつれて、若林さんの暴走がただの暴走ではなく、互いの腹の底を見せ合う為、切実さを引っ張り出す為の暴走だという風に感じるようになった。実際に『さよなら~』では、若林さんが漫才の中で山ちゃんの切実な本音を引き出し、その山ちゃんの独白と、若林さんの口から語られる自身の変化に、かなり心が揺さぶられた。
カタルシスすら感じた『さよなら~』だが、その後に創られた『たりないふたり2020~春夏秋冬~』では、モヤモヤする違和感を抱いた。決定的な出来事が起きたが、そのズレにも身につまされる想いやもがきを感じて、勝手にやり切れない気持ちになった。
その出来事から解散ライブとなった2021年の『明日のたりないふたり』までの期間は約半年。その間に、互いのラジオ番組でのコミュニケーションがあったことを知り、もれなく聴いた。
そして漸く『明日のたりないふたり』である。ここまでの数年の過程を順を追って観たから、どんな時間になるのだろうとドキドキした。一方『だが、情熱はある』で要所要所がドラマ化されていたので何となくの想像はしていたが、その想像の範疇など糞喰らえだった。
山ちゃんは自分の話しばかりしていると言われていたけれど、そんな山ちゃんが自傷発言をする若林さんに、
「若ちゃんにそんな思いさせちゃってるのは俺の劣等感のせいかもしれない」
と訴え、若林さんが山ちゃんに、
「『さよなら〜』の時には気付かなかったけど、(山ちゃんの大切な武器である)自虐の竹槍を捨てるなよ!」
と本気の目をして叫んでいた。
最後にふたりが互いのことを思い合って身を切っている様に心が動かないわけがなかった。
言葉が軽いのがとてもとても悔しいけれど、人間って捨てたもんじゃないと思わされたし、誰かの生き様に触れられることで誰かへの愛おしさが湧き起こる喜びと、人間同士の愛情を感じ、とても豊かな時間をもらった。
漫才の中を出たり入ったり揺らぎながら、出し切ってとめどなく溢れているふたりの顔が忘れられなくなってしまった。本物の顔だった。
*
自分の話しになってしまうが、今の会社入社して間もなく、職場で歓迎会を開いてくれて、久しぶりに飲み会らしい飲み会に参加した。すごく楽しかった。もっと沢山の人とじっくり話しがしたい、時間が足りないとすら思った。
だけど締めの言葉を求められ、
「これからよろしくお願いします」
を3回くらい連呼することしかできなかった。酔っぱらってます感をプラスアルファで演出して、誤魔化した。(誤魔化せていたかどうかはわからない。)
久しぶりに飲んだ酒は頭を冴えさせ、家に帰って飲み会の時間を反芻した。お酒を煽って過剰にテンションを上げていた自分が俯瞰で見えてきて、虚しさが襲ってきた。テンションを無理にでも上げてスイッチを入れないと、上手くコミュニケーションできる自信がなかったからだ。でもそんな擬態、締めの言葉の失態で簡単に崩れ去る程度のものだったのだ。
苦手なことを苦手と受け止めずに、さも得意そうに乗り越えようと誤魔化してきたことが、私の擬態を加速させた要因のひとつだ。
交渉が苦手なのに、今まであらゆる場面で交渉事を担うことが多く、苦手なりに誤魔化し誤魔化しやってきたものだから、経験値は積まれていく。それはそれで貴重な経験なのだと思う。だけど経験を積んだところで、元々苦手なものに対する苦手意識は払拭されないし、エネルギー消費量が半端じゃない。
またその経験値によって、益々
「交渉が得意な人なのね」
と一見勘違いされるし、段々自分でも勘違いしてくる。しかし、ふと気づいた時には、
「あれ?何かがおかしいぞ?」
と戻れないところまで来ていたりする。余裕がなくなると、苦手なことが一気にできなくなって限界に達したりする。そうなってしまったのも結局自分の責任なのである。
擬態して生きてきてしまった人生だ。時に擬態は必要だけど、それでもやっぱり擬態などするものではないと、年々感じている。だが、そうやって生きてきて、きっとその生き方をなかなか変えられないのが自分だ。
『明日のたりないふたり』で、
「擬態して、バージョンアップしてるって見せてるだけなのよ」
と噛み締めるように語った若林さんの言葉がグッと刺さってしまった。
*
人生どん底お先真っ暗と思っていた時、大好きだったはずの映画やドラマを観ても、素直に楽しめなかったし、かなり捻くれていた。
あぁこの画面の中は良いよなぁ、だって辛さも悲しさも嬉しさも全部全部パッケージングできちゃうんだもん。パッケージングすることで、その感情を誰かに見てもらえてるわけじゃん。理解してもらえないにしても、知ってもらうことはできるわけじゃん。この出来事の裏ではこんなこと考えてましたという、普通は他者に見せない部分まで描いて見せてるわけじゃん。
そりゃその中の人物は魅力的に見えるし、観客に受け入れられるし、都合が良いよなぁ、と。
現実はそんなわけにいかなくて、心の底で思っていることなんて、誰にもわかってもらえないし、知ってもらおうとする術も気力も持ち合わせていない。わかってもらおうとも思ってないけど、なんて皮肉を考えていた。
だけどそんな日々から数年経って、今『たりないふたり』を観ているわけだけど、画面を通して自分を包み隠さずに表現をして、自分の身を切り刻んで切実に闘っている2人を見て、都合が良いだなんて思わなかった。虚構じゃないからだろうか。
迷いも悩みも怒りも苦しみも、過去の彼らから変化したことも、変化しなかったことも、全部全部ひっくるめて、愛おしいものだろうと感じた。心打たれた。
たりてたら、わざわざ画面を通してぶつけ合う必要はないのだろうけど、ここまで自分を差し出すのは勇気が要るし、生半可にできることではない。
ここまで見せてもらった身として、最後に清濁合わせ呑んだ上で
「たりなくて良かった」
と言ってくれて、本当に、本当によかった。
物凄く勝手だけど、ふたりが先を歩いててくれる安心感、背中を見せてもらえるありがたさを感じる。そんな人たちが健やかに生きてて欲しいと願わずにはいられない。
同時代には観られなかったけれど、たりないふたりに出会えてよかった。
*
『明日のたりないふたり』を観終えた次の日、パンパンになった目をなんとか開きながら若林さんのYouTubeを観た。
『明日のたりないふたり』の終演後に倒れられたこともあり、2024年2月の東京ドームライブに向けて、自転車通勤でコツコツ体力を向上させる若林さん。
真夏の過酷な自転車通勤の後に、6年半続けた番組の最終回を収録。そして仕事を終えて、また自転車を漕ぐ。自転車を漕ぎながら、長年続けた番組を静かに回顧する。
グッときてしまった。誰においても、他者からはいつだって点で見られる。だけど毎日コツコツ試行錯誤して、そうしてそれが1年になり2年になり‥‥。連綿と続く毎日の中にいる。そうやって続けてきた仕事の一面や、ライブに向けて真面目に向かう姿勢を見せてくれた。
都合の良いヘリコプターなんて来ないんだよな。
自分の弱さに向き合い、弱さを受け入れ、弱さに甘んずることなく、こうやって切実に生きていきたい。
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