【短編小説】ネコとキーコの青い空(第一話)
あらすじ
ある秋の夜、ネコは屋根の上で流れ星を見た。
それがすべての始まりだったのかもしれない。
数日後、青空の下、ネコはその家の窓辺で、紙粘土でできた白い人形と出会う。
キーコと名乗る不思議な人形と、ひとりで生き抜いてきたボス猫との、悲しくも温かい友情の物語。
ネコとキーコの青い空
窓辺の出会い
その日ネコは山根さんの家の屋根で、のんびり夕方の風にふかれていた。ここから眺める空は見事なものだ。ネコの頭上にはまだ青空が残ってはいたが、ポッコリ浮かぶ雲の端は、向こうにいくにしたがって少しずつオレンジ色に染められて、西の空はもう真っ赤に燃えていた。
やがてあたりが薄暗くなり、住宅街を囲む低い山並が黒々と夕焼けにシルエットを映し出す頃、空には星たちが瞬きはじめるのだ。
ネコはまだ昼間の温もりが残る屋根瓦の上で、くるっと丸くなり、のんびりと夜空をながめていた。その時、ひとつの星がポロリとこぼれて消えていった。
「お、流れ星だ」
ネコは、ふと、昔このあたりではばをきかせていたマイクの言葉を思い出した。マイクは茶とらの飼い猫で、人間と仲がよかったせいか、とても物知りだった。
「あいつは、流れ星は願い事を叶えてくれると言っていたが、どうせ人間の請け売りだろう。まったく人間の言うことほど、あてにならないものはないのになあ」
またひとつ空から星が落ちた。
「ほう」
ネコはなんだかうれしくなった。また落ちるかもしれないぞ、と目をこらして夜空を見上げる。すると本当にネコの頭のちょうど真上にあった白い星が、まるで空から外れるように落ちてきたのだ。
「そらきた!」
ところがその星は途中で消えなかった。そのまままっすぐネコのいる山根さんの家めがけて落ちてきたのだ。強い光に屋根の上は真っ白になった。ネコは目がくらみ、おもわず顔を両うでの中につっこんだ。しばらくして恐る恐る顔を上げてみると、あたりは別に何も変わった様子はない。ひんやりとした秋の夜風に乗って、山根さんの家の開けた窓から、テレビの音や子どもの笑い声が聞こえてくる。
「まぼろしだったのか? 疲れているのかもしれない。まったくおれはどうかしている」
ネコはため息をつくと、気を取り直し、特別丁寧に顔を洗い、体を丹念になめた。
翌朝も、空がすっきり晴れ渡ったいい天気だった。秋の長雨も終わり、10月に入ってからは好天が続いている。ネコはいつものように町内の見回りに出かけていった。ネコは山根さんの家のガレージに住んでいる。かといって山根さんの家のネコではない。ご飯だけ人間にもらう外ネコでもない。れっきとした野良猫なのだ。ただ、山根さんの家の薄暗いガレージの隅の居心地の良さに、当面の間、ここを住処にしようと決めているだけだった。ネコはこのあたりのボスネコだった。
2時間ほどでネコは帰ってきた。ぐったりと疲れた様子で、まっすぐにガレージの横の水道に向かった。のどがカラカラなのだ。
さっき1丁目のパン屋の角を曲がったとき、ネコは見知らぬ白猫に出くわした。ネコたちは1日に1回、明け方に集まる。それは同じ場所に生きる仲間を知って、優劣を確認し合い、争いなく暮らしていくための、はるか昔から行われてきた重要な集会なのだ。その白猫は、今朝の集会には顔を出していない明らかに新顔だった。ところがそいつはネコにあいさつをするどころか、塀の間からいきなり睨みつけてきたので、ネコは1時間近くかけて、やっとのことで自分の縄張から追い払ってやったのだ。
「情けない。こんなにヘトヘトになるとはなあ。おれももう若くはない」
自分の時代がもうすぐ終わるのだということを、ネコは心のどこかで感じていた。
庭の水道の下にはバケツがあり、いつでも水がたまってる。ネコはいつものように顔をバケツに突っ込んで、底にある水を飲みはじめた。その時声がした。
「おはよう!」
ネコは驚いてはね上がり、水道から飛びのいた。あまりにのどが渇いていたので、庭に人間がいるかどうかを確かめなかったのだ。
ネコはすばやくあたりをうかがった。
「うむ?」
誰もいない。するとまた声がした。
「ここだよ。窓のところ。」
声のほうを見上げると、出窓が開いていて、風にそよぐカーテンのあたりになにかがいるようだ。
「誰だ」
ネコは背中を低くしてうなった。
「ぼくはキーコ。キミは誰?」
子どもの声がする。ネコは水道の横から伸びている藤の幹に飛びつくと、用心深く、出窓に一番近い枝まで登っていった。
窓辺においてあったのは、真っ白い人形だった。
ネコは首をかしげてその人形をながめた。頭にはヘルメットのような帽子をかぶっている。顔の左右に三角形の耳がついていて、眼にはめ込まれてキラキラ光っているのは、たぶんビー玉というやつだろう。その上にはミミズのような眉毛があって、とんがった鼻には穴が二つ。その下に口らしき穴がぽっかり開いていた。
「おまえか、おれに話しかけたのは」
「ぼくはキーコ。キミは誰?」
大きな口を柔らかく動かして、キーコと名乗るその人形は小さく首を傾けた。
「ほう。おれの言葉がわかるんだな」
ネコは感心した。
「ふうむ。長年生きてきて、人形が話すのを見るのはこれが初めてだなあ。昨日の流れ星といい、おかしなことは続くものだ。」
ネコは藤の枝に体を預け、少しの間その人形を眺めていたが、やがて大きなあくびをした。太陽が空の上まできている。そろそろ昼寝の時間なのだ。
「ねえキミは誰? ぼくはキーコだよ」
「ふん」
ネコは鼻を鳴らした。なにしろ自分以外のことなど興味のないネコだったので、たとえ相手がどんなに不思議なおしゃべり人形であったとしても、これ以上話をするつもりなど毛頭ない。さっさと枝を降りようとすると、キーコはまた訊いてきた。
「ねえ、ねえ、いったいキミはなんて名前なの」
仕方なく、ネコは答えてやった。
「おまえには関係のないことだろう。いいか、おれは名前なんかない。わかったな。これで終わりだ」
「どうして? どうして名前がないの?」
ネコはグッとのどをつまらせた。他の猫たちからは、アニキとかボスとか呼ばれることもあるにはあるが、人間に飼われたことのないネコには、当然だが名前などなかったのだ。人間に媚びることなく自由に生きることが、ネコの誇りでもある。
けれどその時ネコは、なぜかとてもつまらない気がした。なぜそんな気持ちになったのか自分でも不思議だったが、とにかくネコはすっかり気分を害し、ムスッと黙り込んで枝から飛び下りると、黒いしっぽをゆらゆらさせて植込みに消えて行った。
次の朝、見回りから帰ってきたネコは、庭先で一番会いたくない人間に見つかってしまった。山根さんの家の子ども、カケルだ。
「あ! クロニャーだ! おいで、クロニャー!」
カケルは小学2年生。学校に行くのも忘れたかのように、庭中ネコを追いかけ回す。
(やめろ! その名前でおれを呼ぶな! おれはおまえなんかに名前をつけられる筋合いはないのだ。クロニャー? まったく最低だ)
ネコは一応黒猫だったが、すべてが黒いわけではなく、口の周りとお腹の一部、それから足先は真っ白だ。
「クロニャーは靴を履いてるんだね」とカケルに言われ、情けない気分になったこともある。自分には頑丈な肉球がある。靴が必要な人間のヤワな足とは違うのだ。
ネコは腹を立てながら、そっとアジサイの根元に隠れた。しばらくするとカケルもあきらめて、ブラブラと門を出て行った。いつもこうなのだ。カケルのしつこさにネコは毎回うんざり
させられる。
ネコはホッと一息ついて、水道に向かった。上の出窓にはおしゃべり人形が昨日と同じところでネコを待ってた。
「おはよう!」
返事をするつもりはもちろんない。
「おはよう、クロニャー!」
「ゲホッ」
ネコは水をのどに詰まらせた。
「おまえ、今おれをなんと呼んだのだ?」
「クロニャー。きみの名前だろう?」
口の両端を上に曲げてキーコはにっこり笑った。ネコはブルブルッと身震いをして、キーコをにらみつけた。
「言っとくがな、おれはそんなまぬけな名前じゃない。ここのクソガキが勝手につけた名前なのだ」
「それじゃあ、ほんとはなんという名前なの」
「言ったはずだ。名前なんかない。おれには必要ないからな」
キーコは眉毛を大きく丘のようにして驚いた顔をした。
「どうして? どうして必要ないの?」
「一人で生きてるからさ。だから誰かに名前を呼ばれる必要がないのだ」
「そんなの、さみしくないの?」
「ふん。ないね」
ネコは鼻で笑ってやった。
「へえー!」
キーコの目はビーダマが飛び出しそうなくらい大きくなった。
「信じられないな」
「結構だ」
ネコは長いしっぽをパタパタさせた。イライラしている時にしてしまうネコのくせだ。
「だって、ひとりってことは誰とも話ができないんだよ。たとえば、ぼくは今とても幸せなんだ。こんな楽しい気分、誰にも聞いてもらえないとしたら、なんだかつまらないよ。やっぱり誰かに話したいじゃないか。ぼくはひとりはいやだなあ」
ネコは、キーコがあんまり目玉をキラキラさせるので、少し不思議に思った。
「いったいおまえは、なにがそんなに楽しいのだ?」
「ぼくがこの世に生まれたってことだよ!」
木漏れ日を受けて、ビー玉がいっそうきらめいている。
「あれはきのうの夜の前の晩さ。突然ぼくは目がさめたんだ」
「きのうの夜の前の晩? なんとまぬけな言い回しだ」
ネコはわざと聞こえるようにつぶやいてやったが、キーコは別に気にしないようだった。
「目の前に男の子がいた」
「ふん。あのクソガキか。あいつがおまえを作ったのだな」
「カケルはぼくに言ったんだ。『いいかい? おまえの名前はキーコ。地球を守る無敵のソルジャー1号だぞ』ってね」
「地球を守る無敵のソルジャー? おまえがか?」
キーコの顔をまじまじと見つめ、ネコは危なく吹き出しそうになった。
(こりゃあいいぞ! カケルってやつはただのクソガキだと思っていたが、これで完成とは、とんでもない不器用なガキンチョでもあるってわけだ)
キーコは大きな耳をパタパタさせながら、うれしそうにしゃべり続ける。
「それからそばを通るたびに『キーコ! 元気?』って声をかけてくれるんだ。いいだろう? ぼくは本当に幸せだよ。カケルはぼくが大好きなんだ」
ネコはまたしっぽをパタパタさせた。
(ふん。くだらない)
ネコは人間が嫌いだった。人間は決して信用できない生き物だとそう思っている。ネコには辛い思い出があったのだ。
「カケルは毎日窓を開けてくれるんだよ。ほら、今日もいい天気だろう! 空は真っ青で、風がぼくのからだをすりぬけていく。それだけだってぼくの心はウキウキするよ。そうしたら、キミが来たんだ!」
ネコは今にもちぎれそうなくらいしっぽを地面に叩きつけながら、このお気楽な人形が一番傷つく言葉は何なのだろうと真剣に考えていた。
「キミはぼくのそばに来て、こうやって話を聞いてくれている。 ああ、やっぱり友達って最高だよ!」
「友達だって?」
ネコの声が裏返った。
「おれとおまえが友達なのか? 冗談じゃない! 昨日と今日、2回会っただけじゃないか」
たったひとりで生きてきたネコなのだ。この世で信用できるのは自分だけ。友達が欲しいなどと考えたことなど一度もない。
「いいか、だいたい友達っていうのはお互いに認め合うものだろう。当然だが、おれはおまえなど友達だとは思っていない。まったく、たかが人形のくせに、ずうずうしいにもほどがある!」
怒りに声を荒げ、全身の毛を立ててキーコをにらみあげたネコは、おや?っと思い、何倍にも膨らませたしっぽを地面に静かにおいた。キーコの顔に、さっきまでの輝きが消えている。三角の耳は張りを無くして垂れ下がり、ふたつの青いビー玉はすっかり色を失って、まるで暗い泉のようだった。
「まあ…」
ネコは少し口ごもった。
「おまえが勝手にそう思う分には、別にかまわないが。どうせおれには関係のないことだからな」
キーコが黙ってうつむいたので、ネコはそっと窓辺を離れた。
マイクのこと
10月も半ばを過ぎると、さすがに夜はひんやりとする。ネコは日が暮れるのを待って、ガレージからのっそりと出かけて行った。目的地は、夜の飲み屋街だ。
駅前のほろ酔い横丁は、会社帰りの親父たちや大学生でにぎわって、夜中まで明かりが消えることはない。当然店の裏にあるポリバケツには、いつも残飯があふれている。
ネコが流れ者をやめて、この町に落ち着いてからもう7、8年になる。ちょっと路地に入りこめば、簡単にフライドチキンやシャケ弁当にありつけるのだ。野良猫たちにとって、こんなに魅力的な場所は、このあたりにはそうそうないだろう。誰もがスキあらばこの町にもぐりこみたいと考えている。だから、ここで長年ボスの座を守り続けるネコは、それなりの力の持ち主だった。
「うーむ。今日のさしみはうまかったなあ。明日はコンビニの裏あたりを回ってみるか」
ガレージに戻ると、満腹の腹を横たえて、ネコはゆったりと毛皮の手入れをはじめた。
「友達か…」
ふとネコはつぶやいた。そんな言葉を聞いたのは何年ぶりのことだろう。
「あれから随分時間が経ったなあ」
ネコの細めた緑の瞳は、知らず知らずのうちに、遠い昔を見つめていた。
それは辛い出来事だった。
この町に来たばかりのころ、まだ若く、恐いもの知らずだったネコにとって、毎日が戦いの連続だった。ふらりと流れてきた新入りが、そこにいる猫たちの縄張りに足を踏み入れるのは、簡単なことではない。ネコの体に生傷が絶えることはなかった。それでも腹をすかせた若いネコは、駅前のフライドチキンや回転寿司、捨てられたコンビニの弁当のために、一日一日を必死に生き抜いていた。
そんなネコのたった一人の味方は、茶とら猫のマイクだったのだ。
マイクは商店街の総菜屋の大猫だった。おいしいご飯をたっぷり与えられ、残飯などあさったことも無い、苦労知らずの飼い猫ではあった。けれどたっぷり太った体に見合うほど、懐が広く、穏やかな性格の猫だったので、あたりの荒くれ猫たちからも一目置かれる存在だった。
マイクは、ネコがケンカに負けて路地に追い込まれると、きまってどこからか現れてその場をおさめてくれた。食事にありつけない夜は、いつのまにかそばにいて、足元にから揚げを置いていってくれる。その日によって、アジフライやコロッケだったりもした。
「いいから食べな。生きていりゃあ、いつか、いい事もあるだろうよ」
マイクは、持ってきた食事に夢中でかぶりつくネコを、うれしそうに眺めていた。そして、少し離れたところに座って、いつも何かしら話をしてくれたのだ。そのほとんどが人間の話だった。
「なあ青年」
マイクはネコをそう呼んた。
「人間と暮らすのはいいぞ。暖かい寝床に、うまい食事。だけどそれだけじゃない。おまえは親の顔を覚えているかい?」
ネコは首を横に振った。
「そんなもんだ。おれたち猫は、ほとんどが赤ん坊のころに親にはぐれて一人暮らしさ。このおれだって、ほんの小さいころ総菜屋にもらわれてから、一度も親の顔は見ていないんだ。いいかい、親は子どもを愛するもんだ。それなのにおれたちネコにはそれは許されない。親元でぬくぬくと愛されながら暮らすなんてことができるのは、ほんの一握りの恵まれたやつらだけってことさ。けどな、うちの親父もおかみさんもいい人だ。おれは十分かわいがってもらっている。おれを子どものように思っているんだろう」
マイクは目を閉じて、満足そうに前足を太った体の下に収めた。
「青年よ、愛されるってのはいい。気持ちがゆったりとしてくる。人間と暮らさなきゃあ、こればっかりは味わえないもんだろう。おまえにも、いつかそんなめぐり合わせが来るといいがなあ」
ところが事件は突然やってきたのだ。
ある日、商店街から総菜屋の姿が消えた。前の日は普通に商売をしていた総菜屋の店が、次の朝にはもぬけの殻になっていたのだ。
夕方、ネコが商店街の裏手を通りかかると、総菜屋の裏口の前にぼんやり座っているマイクを見つけた。ネコが近づくと、マイクはいつもと同じ穏やかな顔で振り向いた。
「いったいどうしたっていうんだ? マイク」
「おお、青年。今夜は食事にありつけそうかい?」
「総菜屋はどこにいったんだ?」
「うむ、それがおれにもわからない。二人とも真夜中にそのへんの荷物をバタバタまとめ出して、あっという間に出て行ったんだ」
「おまえは一緒に行かなかったのか?」
「ああ、親父が言うには、今はまだだめなんだそうだ。そのうち必ず迎えに来るから待っていろと、そう約束して出て行った」
「そのうちってどのくらい待つんだろうか」
「わからないが、まあ、たぶんすぐだろう」
マイクはのんびりとあくびをして立ち上がると、ガスボンベの隙間からガサガサ紙包みを引きずってきた。
「いっしょに食うかい? おれの晩飯だ。おかみさんが心配して、ここにおいていってくれたんだ」
マイクとネコは、山のように盛られたコロッケを腹一杯食べた。
それから毎日、マイクは昼間の間、商店街の隅っこにうずくまり、総菜屋が来るのを待っていた。
コロッケは2日で無くなり、自分で食べ物を取ってきたことのないマイクは、ネコの運ぶほんのわずかな食べ物と、商店街の人がたまに分けてくれる夕食の残り物で、ほそぼそと命を繫いでいるようだった。
艶やかな白と茶色の毛並みはパサパサに乾き、大きな体は日増しにやせ細っていった。
ある日ネコはさすがに気になって、マイクに訊いた。
「ねえマイク、総菜屋は本当に迎えに来るんだろうか」
「心配するな。親父やおかみさんがおれを忘れるわけがない。もうじき迎えに来るだろうよ」
ぼろ布のようになりながらも、相変わらずのんびりした顔で答えるマイクを見て、ネコは不安を飲み込んだ。
「そうだな。おまえは愛されているんだ。きっと、もうすぐだろう」
まだまだ自分ひとりの食事さえ、ろくに獲ってはこれないネコだった。けれど世話になったマイクのために、もうひとふんばりしなければならない。
「青年、おまえには迷惑のかけっぱなしで悪いなあ」
マイクはすまなそうな顔をした。なんだかずっと年を取ってしまったように見えた。
総菜屋がいなくなって、そろそろ1ヶ月が経とうというある日の夕方、いつものようにマイクとネコがささやかな食事の後の夕涼みをしていると、商店街の裏手の路地に一台の車が止まった。降りてきたのは総菜屋のおかみさんだ。 ネコはあわてて電信柱の陰に隠れた。
おかみさんは人目を避けるようにすばやく辺りを見回すと、総菜屋の店の裏口でうずくまるマイクを見つけたのだ。
「マイク! おまえ、ちゃんとここにいたんだね」
マイクは目を輝かせ、ヨタヨタとおかみさんの前に走りよって行った。
おかみさんは持っていたビニール袋からあわただしく紙包みを取り出して、マイクの前に広げた。プーンと唐揚げのいいにおいがする。
「たくさん食べるんだよ。まったくよく生きていたねえ」
おかみさんはしゃがみこんでマイクの頭を何度かなでると、すっくと立ち上がり、すばやく裏口から店の奥に入っていった
マイクはうれしそうにネコを振り返った。
「おい青年、一緒に食おう。こっちに来いよ」
ネコは久しぶりのご馳走に感激して、グルグルとうなり声を上げながらかぶりついた。
マイクは一口かじっただけで、悠々と口の周りを拭いている。
「もういいのか?」
ネコが不思議に思って訊ねると、マイクは満足そうに口元を緩めた。
「おまえには本当に世話になったなあ。残りはおまえが食うといい。本当にありがとうよ」
「いいんだ。おれだっておまえに世話になってたんだ。随分助けてもらったじゃないか」
マイクは優しい眼差しをネコに向けた。
「おまえはたいしたやつだ。最初におまえに会った時からおれにはわかっていたよ。いつかきっとこのあたりのボスになるだろう」
「ボスかあ」
ネコは、夜空を見上げた。
「だけどマイク、おまえはもうここにはいないんだろう?」
「ああ、おれは行くよ。おかみさんと一緒にな」
「もう会えないな」
「そうだな。けど青年、おれはおまえを忘れないだろうよ。おれたちは友達だからな」
「そうだな」
ネコはうれしかった。
「おれたちは友達だ」
そういい終わった時、おかみさんがあわただしく裏口から出てきた。ネコはすばやく身を隠した。
薄暗い街灯の下、手に大きなカバンを抱えたおかみさんはチラッとマイクに目をやると、グッとうつむいて、そのまま足早に車の方へ歩いていった。そして、あっという間にドアを開け、中に乗り込んだのだ。
「おい、マイク!」
ネコはびっくりしてマイクに声をかけた。マイクもあわてて立ち上がると、ヨロヨロと歩き出した。その目の前でドアがバタンと閉まった。
「ま、待ってくれ。おかみさん」
信じられないことだった。マイクはドアに両手をかけ、叫んでいた。けれどおかみさんはエンジンをかけ、車はそのまま動き出したのだ。次の瞬間マイクは車を追って走りだした。
「無理だよ! マイク! 無理だ!」
マイクは止まらなかった。皮だけになった腹の皮をブルブル左右に振りながら、マイクは暗い商店街の裏道を、赤いテールライトを追って走った。
ネコも必死で後を追いかけた。車は路地を抜けて、にぎやかなバス通りの交差点を突っ切った。
「あ、危ない! 止まれ、マイク!」
ネコは走りながら叫んだ。
それは一瞬の出来事だった。
ドンッと鈍い音がして、マイクの体は星空に舞い、それからネコの目の前にドサリと落ちてきた。
血にまみれ、ぞうきんのようになったマイクのからだがピクリピクリ波打っている。ネコは必死でマイクの傷口をなめてやった。暖かいマイクの血は、なめてもなめても止まらなかった。マイクは突然ククッと体をそらしたかと思うと、そのまま動かなくなった。
ほんの少し前、喜びに輝いていたふたつの目は、上を向いたままもう二度と閉じることはなかった。
「いやなことを思い出したものだ」
ネコは深くため息をついた。
「まったく哀れなやつだった。人間なんて結局は、自分勝手な生き物だったのに」
ガレージの暗闇に寂しげな虫の声が響きわたる。ネコは隅に置かれた段ボール箱の上で丸くなり、目をつむった。
「なあ、マイク、おれはおまえが好きだったよ。おまえは確かに友達だった。けど、あれからおれは大変だった。敵ばかりの中で、友達が欲しいなどと、そんな甘いことを考えていたら、おれは到底ボスにはなれなかっただろうよ」
つづく