【短編小説】春の夜 君に会いに
はじまり
それはまったく突然始まった。K市の郊外、山あいの静かな町に、まだ肌寒いある春の夜、星空を渡り高らかに響きわたったのだ。
バス通りから少し入った、閑静な住宅街に家を構える竹中元治は、妻の加奈子と二階のベランダでその音を聞いていた。
「始まったな」
夜空を見上げ、元治はゆったりとタバコをくゆらせる。黒々と横たわる山の稜線から空を貫いて渡るそれは、澄んだ美しい旋律で、元治の心に染み入ってくる。
「ええ」
加奈子も空気の冷たさに二の腕をさすりながら、瞬く星を仰いだ。
「何の音に聞こえる?」
「…なにかな…草笛?」
「そうかい? おれには大聖堂に鳴り響く、たった一つの鐘の音に聞こえるよ」
「まあ、ロマンチックね」
加奈子は微笑んだ。
「私はやっぱり草笛にきこえるわ。愛する人を待つ合図。物悲しい音色。ほんとに聞く人によって様々なのね」
「不思議な音色だな。心に沈めた秘密の小箱から、ほんの少しこぼれ落ちた思い出のような、そんな切なさがある」
「ああ、あなたって、やっぱりなかなかの詩人だわ!」
元治はハハッと笑いタバコをくわえると、手にしていた一枚の写真を加奈子に渡した。この春近くの山で撮ったものだ。
加奈子はリビングの明かりにかざして「ふーん」と首をかしげた。
「偶然にしても、よく撮れたものね」
元治に寄り添い、加奈子はまた耳を傾ける。
「そうね…いつもと違う何かが起こったとしてもおかしくないくらい、この音には本当に、そんな力があるかもしれないわ」
「今度はきみが小説家か?」
ふたりは互いに微笑むと、またそれぞれに青い夜空に目をやった。
その夜
花輪コーポの一階に住む緒方夏美がその音を聞いたのは、夜中の十二時過ぎ。十歳になる一人娘の綾香の布団をかけ直してから、パソコンを落とし、つけっぱなしのテレビのスイッチを切った直後だった。
「あれ? 何の音だろう」
夏美は耳を澄まし、部屋の中をうかがった。どこからか不思議な音が聞こえてくる。
「家の中じゃないな。何だろう、きれいな音」
綾香を起こさないようにそっとノブを回し、玄関を出る。アパートの周りをぐるりと一周した夏美は、ハッとして上を見上げた。
「空からだ!」
同じ頃、深夜のバス停に降り立った城山昇は、残業疲れの重い足取りで、近道に使う長い石段を上りはじめていた。昇の家は山肌を埋めつくす住宅街の中腹にあった。
ひとかたまりの車の音が過ぎ去って、あたりは静けさに包まれる。一坪ほどの踊り場で、昇は一息ついた。そこからは下に連なる家々が一望できる。
「ああ、空が広いな」
夜空を眺め、いつものように、この日最後のタバコに火をつけようとした時だった。
「ん?」
昇はふとタバコを口元から離し、聞き耳を立てた。満天の星空の下、奇妙な音が鳴り響いている。少し間隔をおきながら、二つの違う音階で、交互にゆっくりと聞こえてくるのだ。
「金属音だな。ブランコ…? こんな夜中に?」
ブランコのある児童遊園は、昇の家の更に上にある。昇は音のする方向を確かめようと耳を傾けたが、音は町をぐるりと取り囲む山々に反響して、まるで位置がつかめない。
「それにしてもこの音量、ただごとじゃないぜ。あいつ、気がついてるかな」
昇はタバコを箱に押し戻し、残りの階段を早足で上りきると、妻の待つ家に急いだ。
その夜、梶原巡査は早めに風呂を済ませ、唯一の趣味であるプラモデルの空母大鳳の甲板に、細心の注意をこめて、零式艦上戦闘機をそっと乗せた。一日の終わりを締めくくる至極の時だ。
「いいねえ、うん、なかなかいい」
思った以上のできばえに、梶原巡査の口元から口笛が流れる。それは四十年も前の流行歌で、途中から忘れてしまってはいるものの、梶原巡査のお気に入りの曲だった。
「もう、いいかげんにしてよ。うるさい!」
ふすまが乱暴に開いて、大学四年の娘、佐和子が髪を振り乱して立っていた。
「レポート明日までなんだからさあ。静かにしてくんない? もう、おんなじフレーズばっかり繰り返し繰り返し。しかもへたくそだし、ほんと、やめてほしいわ」
そこへ、とっくに寝ていたはずの妻の美也子が不機嫌そうに顔を出した。
「そうよ。夜口笛を吹くと、鬼が来るんだからね。もういいかげんに寝たらどう?」
美也子にぴしゃりとふすまを閉められて、梶原巡査は深いため息をついた。ちょうどその時、駐在所の電話が鳴り響いたのだ。
四月下旬といっても、バイクで受ける夜風の冷たさは容赦がなく、ハンドルを支える肩に思わず力が入る。深夜の住宅街を、梶原巡査は通報のあった花輪コーポへと急いだ。アパートの前で待っていたのは夏美だった。
「この音なんです。おまわりさんも聞こえるでしょう? 変な音がしてるんですよ」
「変な音?」
「エンジンを止めなきゃわからないと思うけど」
梶原巡査はムッと黙り込んでバイクのエンジンを切った。すると夏美の言うとおり、どこからか不思議な音が聞こえてくる。梶原巡査は懐中電灯をつけ、アパートの周りを照らしながら歩き始めた。
「いえ、違うんですよ。そんな近くじゃないでしょう、この音は。空よ。空から聞こえるんです」
後ろからついてくる夏美が、イライラしたように声を荒げた。
「空ねえ…。うん、まあ、ちょっとそのあたりを走ってみましょう」
梶原巡査はそう言うと、不満顔の夏美を残し、花輪コーポを後にした。川沿いを西にしばらくいった所で巡査はバイクを止めた。駅から遠いこのあたりにはコンビ二がバス通りに一件あるくらいで、午前を回ると、路地を歩く人は誰もいない。死んだように眠る町の上に、その不思議な音は、確かに大きく鳴り響いている。
「何だろう。普通じゃないってことは間違いないが。けど、空からっていってもねえ」
星空を見上げてうなり声を上げ、今度は南の丘のほうに行ってみようと梶原巡査はバイクのエンジンをかけた。
一人暮らしの松原富子がその音を聞いたのは、夜中の二時を回ったころ。トイレに起きた富子が用を足して、便座から立ち上がろうとした時だった。小さく開いたトイレの小窓から、夜の冷気と共に妙な音が流れてくる。
「おやまあ、何の音だろう」
富子は小さな窓からそっと外をうかがった。道をはさんで高いフェンスの向こうに広場があり、広場のはずれには頑丈な囲いを施された高圧線の高い鉄塔がある。ひっそりとした暗闇から、青く輝く夜空に伸び上がる鉄塔。この怪しい音は、そのどこからか聞こえてくるように富子には思えた。
「いやだ。どこかねじがゆるんでたりするんじゃないだろうねえ」
すっかり目が覚めた富子は懐中電灯を持ち出して、ジャンバーをはおり、背中を丸めて玄関のドアをあけた。
「うわ、なんだ、こんちきしょう!」
懐中電灯の光に驚いた黒猫が、植込みから飛び出した。猫は広場の闇に一目散に消えていった。
「まったく油断も隙もありゃしない。あいつかね、いつも玄関にうんちをしていくのは」
十数年前に猫除けのためにいいと聞いてから、富子の家の周りには、水を入れたペットボトルがあちらこちらに置かれている。富子は忌々しそうにその一つを睨みつけてから、ハッと本来の目的を思い出した。音は間違いなく鉄塔の上から聞こえてくるのだ。
広場を横切り、鉄塔を見上げながら高圧線の周りをうろうろしていた富子は、突然後ろから声をかけられた。
「もしもし。どうしましたか?」
飛び上がるように振り返ると、立っていたのは梶原巡査だった。
「なんだあ、松原のおばあちゃんじゃないか。どうしたの? こんな時間に」
「何を平和な声出してるんだい。聞こえないのかい、鉄塔が鳴ってるんだよ」
「ああ、この音ね。それで私も見回ってるんですよ」
「見回るも何も、鉄塔だよ。決まってる。早く電力会社に電話しておくれよ」
「まあ、そうだね。一応調べてもらいますかね。明日にでも」
「朝一番でだよ。ほんとだからね。もし事故の前触れかなんかだったら、あんた、一大事だよ」
富子は腰に手を当てて、今にも食いつきそうな顔で巡査をにらみつける。
「分かりましたから。まあ、あんまり大騒ぎしないで。近頃少しカッカしすぎじゃないの? そうそう、広場で遊んでる子どもの親から注意してくれって頼まれてるんだ。この間、ホースで水かけようとしたんだって?」
「あんた、何言ってるの? ボールが飛んできて、せっかく咲いてた花をつぶしちまったんだよ。何度目だと思ってんだい。仏壇に供える大切な花なんだ。おまけにろくにあやまりもしない。ああ、もういやだ。子どもも猫も大嫌いだよ」
「まあまあ、とにかく、電話はしときますから。今夜はもう寝た方がいい。血圧高いんでしょう?」
フンと鼻息を残し家に戻っていった富子の後ろ姿に、梶原巡査はやれやれと頭を振った。
「鉄塔ねえ…。そんなんじゃあないだろうよ」
二日目 夏美
夕方、夏美は勤め先のファミリーレストランから帰ると、ローテーブルの脇に寝転がってテレビを観ている綾香に訊いた。
「ね、警察から電話なかった?」
「ないけど。なんで?」
「もう、ちゃんと調べてくれたのかなあ」
「あ、あの音のこと? いいなあ。今日私も聞いていい?」
「だめ。夜遅いんだから。それより、宿題は?」
「けち。あーうるさい。まったくかえってやる気なくなる」
ふてくされて起き上がり、乱暴に問題集を開く綾香に、夏美はため息をついた。小学四年になり、綾香の態度は悪くなる一方だと思う。自分の接し方に問題があるのかもしれないと、夜中に頭を抱えることもあった。何かにつけて反発する綾香に腹がたち、つい口げんかになってしまうことなど、いまや日常茶飯事なのだ。けれど、怒る気力もないほど今日の夏美は疲れていた。
昼間、店に綾香の同級生の母親達が連れ立って食事に来た。三年前夫を亡くして以来ずっと働き続ける夏美にとって、優雅に食事をする彼女達との境遇の差など、気にしている余裕もない。女手ひとつで子どもを立派に育てているというプライドもある。けれど、こんな日はなぜかどっぷりと疲れてしまうのだ。
どうにか食事を作り、綾香とテーブルについた夏美だったが、いつもの頭痛が始まって、はしが進まない。
すると突然綾香が立ちあがり、隣の部屋にスッと入っていく。たんすの引き出しを開けた音がして、戻ってくると、手のひらに乗せていたのは頭痛薬だった。
「飲んだほうがいいよ」
思いがけない綾香の行動だった。自分をいたわる優しいまなざしに夏美は驚いた。水の入ったコップを差し出しながら、綾香はため息まじりに言うのだ。
「ママ、もう寝なよ。後は私全部するから。洗いものもするし、生ゴミだってまとめて捨てとくよ。とにかく心配しないで寝てなさい。まったく働きすぎなんだから」
そうして呆れたように微笑む我が子の大人びた顔に、夏美の胸は切なく震えた。
(大丈夫だ。ちゃんといい子に育ってる)
「ありがとう。じゃあそうさせてもらおうかな」
リーン ゴーン
リーン ゴーン
その音は木立を抜けて、更なる闇から鳴り響いてくる。しなやかな枝を払いのけたところで夏美はふと夢から覚めた。
「またあの音鳴ってるんだ」
夏美は起き上がり、ジャケットをはおると、綾香の寝息を確かめてから、そっと外に出た。
リーン ゴーン
リーン ゴーン
「ああ、すごい音」
夏美は夜空を仰いだ。
「UFOとか、絶対そういう類のものだな」
青い星空のドームに、ほぼ等間隔で鳴り響くその音は、どこか意思のある、意図的なものに聞こえるのだ。発信源が地上なら、周りの住民が騒ぎ出さなければおかしいほどの音量だ。
「そうなると、やっぱり空か、山の上…」
ふいに胸の奥がザワザワと揺れた。
(誰か…呼んでる…?)
心臓の鼓動が早くなる。ざわめきに背中を押されるように夏美はアパートの前を離れ、街頭に照らされた薄暗い住宅街を歩き出した。
「どこ?」
明かりの消えた路地の突き当たりは、丘の頂上に続く黒々とした竹やぶだった。夏美はガードレールをまたぎ、ためらうことなく闇に分け入った。かすかにもれる月明かりを頼りに、夏美は鋭くしなる竹の枝を全身で払いのけ、山の斜面を昇っていく。
リーン ゴーン
リーン ゴーン
クラクラするほどの音量が夏美の頭を通り抜ける。
「近い…もうすぐ!」
光が見えた。夏美は足をもつれさせながらも、這うように進む。そして、網の目のように絡まった藪をどうにかくぐりぬけた瞬間、息を止めた。
「なに…これ…」
竹林に囲まれてぽっかり開いた草はらに、真っ白な発光体が浮かんでいる。金縛りにあったようにその場に立ちつくし、夏美はその光の塊を凝視した。すると、その目のくらむような輝きの中心がちらちら揺れて、やがて光の中に黒い人影が浮かび上がった。
「だ、誰?」
逆光の中近づいてくるその顔が、やがてゆっくりと月明かりに浮かび上がると、夏美は全身に鳥肌を立てた。それは、二度と会うはずのない、愛しい夫の顔だったのだ。
「たけちゃん? ほんとに? ほんとに?」
目を見開いて呆然とする夏美の震える肩を、武史はそっと抱きよせる。その胸の確かな温かさに、夏美はわっと声を出して泣いていた。
「会いたかった。たけちゃん」
なつかしく愛おしいぬくもり。目の前だけを見つめ、夢中で生きてきたこの三年間の張りつめた思いが、堰を切って流れ出す。
泣きじゃくる夏美がようやく落ち着いて笑顔を見せた頃、光は闇に溶け、不思議な音も消えて、あたりは夜の静けさに包まれていた。
「ね、家に帰ろう。綾香、大きくなったよ」
夏美は武史の手を引いて、藪をくぐり住宅街を抜けて、花輪コーポへ戻った。
薄暗い部屋で、綾香はかすかな寝息を立てて眠っている。
「綾香、綾香」
綾香を揺り起こそうとする夏美の手を、武史は静かに押さえ、首を横に振った。
「でも…」
「気持ちよさそうだ。寝かせておいてやろう」
武史はふっくらとした綾香の頬にそっと手をあてて、夏美を振り返る。
「ずいぶんなっちゃんに似てきたな」
「そうかなあ…。おでこなんか、たけちゃんにそっくりじゃない」
ふたりは小さく笑う。
「おれ達の子だからな」
少しして、夏美はお茶を入れるため、キッチンの明かりをつけた。
「あ! そうだったんだ」
綾香に任せたキッチンは、見事に片付けられていた。椅子の上には、寝る前に夏美が背もたれにひっかけたエプロンが、きちんとたたまれて置いてあった。
「たけちゃん! 見て! お皿、きょうは綾香が洗ってくれたんだよ。こんなにちゃんとやってくれた…」
エプロンをそっと抱きしめると、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「いい子なの。ちょっときついけど、でもとってもいい子なんだ」
武史は夏美を抱き寄せた。
「ありがとう、なっちゃん。たったひとりで大変だったな。よくやった」
そう言って、大きな手のひらで夏美の頭を優しくなぜる。夏美は真っ赤な目で武史を見つめ、くしゃくしゃの泣き顔で微笑んだ。
「うん。がんばった!」
それから夏美は綾香のアルバムを開く。絵や作文もみんなとってある。聞いてもらいたいことは山ほどあるのだ。
「そうだ!」と夏美はキッチンに立ち、小鍋にミルクを注ぎ、ティーバックの紅茶を入れて火にかける。
「はい、ミルクティー。たけちゃんの好きなやつ! ああ、ホッとする。ほんとに何年ぶりかなあ、この味」
ふたりは何度も密やかな笑い声を立てた。花輪コーポの一室で、優しい時間が過ぎていく。
二日目 昇
「でも和室は必要よ。おかあさんは畳じゃないとだめなんだから」
妻、百合子のかたくなな横顔を見て、昇は苛立ちをつのらせた。
「だから、何度説明したらわかるんだよ。おかあさんは一年に一度来るか来ないかじゃないか。そんなめったに使わない部屋を作るほど、広さだって、資金だってないんだよ」
「めったに使わなくなるとしたら、おかあさんが遠慮してるってことよ。パパがもっと気を使ってくれたら、一ヶ月に一度だって来たいはずなんだから。ほんとなら一緒に暮らしたっていいくらいなのに」
「ああ、もう、またそれか」
「正樹にとってもそうすべきなのよ。例の広場の隣の松原さんとか、このあたりはおかしなおばあさんばっかりなのよ。このままじゃ、ばあばのことも敬遠するようになるわ。パパには親がいないんだし、正樹のおばあちゃんは私のおかあさんだけなのよ」
昇は肺に溜まった暗い息を一気に吐き出すと、椅子からすっくと立ち上がり、小銭入れをつかんでリビングを出た。禁煙は成功したはずだったが、この一か月であっけなく元に戻った。
「リフォームなんてクソくらえだ」
吐き捨てるようにつぶやいてサンダルをつっかけ、昇は玄関のドアを乱暴にあける。襟元から流れ込む真夜中の冷気にブルッと身震いして、昇は頭上に広がる星空に目をやった。すると、昨夜と同じあの音が耳に飛び込んできたのだ。
キィー クゥー
キィー クゥー
一瞬百合子を呼ぼうか迷ったが、忌々しい気持ちで舌打ちをすると、昇は門を出てバス通りに降りる階段に向かった。その音は真下の住宅街からや、向かいの山の中腹からも聞こえるような気がする。コンビニで本来は明日の分であるタバコを買い、もと来た階段を昇っていると、音は今度は自分の家のもっと上の方から響いてくるようにも思えるのだ。
「金属音だよな。やっぱり。だけどこのボリュームで、ブランコってことはないよなあ。いくら夜だからって、ここまで響くなんてないだろうしなあ…」
そう思いながらも、いつしか昇の足は自宅に続く出口を通り過ぎ、さらに上のブランコのある児童遊園に向かっていた。
階段を昇りきり住宅街をさらに上ると、黒々とした公園の木々が見えてくる。
キィー クゥー
キィー クゥー
胸の鼓動と共に、昇の足も早くなる。音は確実に近くなっているのだ。入り口でいったん立ち止まり、そっと中をうかがった昇は、思わずぞっとして体を固くした。丘の上の公園の、満天の星空の下、軋んだ金属音を響かせてブランコが確かに揺れている。そして、揺らしているのは小さな影だった。
「やっぱりここか。だけどなんだってこんな夜中にあんな子どもが」
闇に紛れそっと近づいた昇は、我が目を疑い息を吞んだ。
「うそだろ…? ちょっと待ってくれよ…」
キィー クゥー
キィー クゥー
頭が割れんばかりの音量に、こめかみを押さえながら、昇はふらふらと手前のブランコに座りこんだ。そして恐る恐る横に目をやると、喉の奥からかすれた声をもらした。
「こいつ…、おれ…だ」
その子はまさしく小学生の昇自身だったのだ。
昇はほとんど放心状態で、まるで手品でも見るように、小さな自分の姿を見つめた。
所在無げに足をブラブラさせてブランコをこいでいる、ひょろりとした、気の弱そうな子ども。いつしか昇は遠い記憶の中に幼い自分を追っていた。
(ああ、そうだ…。おれはいつもこうやって、かあさんの帰りを待ってたんだ。友達がみんな帰っても、おれはずっと待っていた)
昇は母と二人暮らしだった。幼稚園の頃、両親が離婚をし、昇は母に引き取られた。生計を立てるため、母は昼間、近くのスーパーで働いていた。昇は夕方になると、帰り道にある公園で、ブランコに揺られながら毎日母を待った。日が短い冬は、五時にもなるとあたりは真っ暗になる。それでも、夜は夜で知人の飲み屋を手伝っていた母と一秒でも長くいるためには、昇は心細さと戦わなければならなかった。街灯が灯る公園の入り口に、母の姿が現れることだけを願って、昇はひたすらブランコをこいでいたのだった。母はたまに昇の大好きな唐揚げを買ってきてくれて、そんなときは特別に、二人でベンチに座りながら、ほんのすこしずつつまみ食いをしたりした。束の間の幸せな時間だった。
昇は突然両手で顔を覆った。
「好きだったのに。こんなにかあさんが好きだったのに、おれは…」
昇が道を逸れ始めたのは、中学に入ってすぐだった。
離婚後一度も会わせてもらえなかった父が、交通事故であっけなく逝ってしまい、その葬式の席でのこと。昇は叔母から、離婚は一方的に母が望んだものだったことを知らされたのだ。父親のいないさみしさに溺れそうになる心を、母への慕情がつなぎとめていた小学校時代だった。その糸がプツリと切れた気がした。
そのあたりからだった。友だちも皆さみしい子どもばかりだった。母がいないのをいいことに、家はやがてワルガキたちの溜まり場になり、昇はやりたい放題を重ねた。母が泣こうが喚こうがお構いなしの毎日だった。高校に入ってからはそれでもかなり落ち着いたものの、今度は泊まり歩いてあまり家には寄りつかなかった。
つけはやがて来た。卒業式が近いある休日、久しぶりに家でくつろぐ昇に、母はうれしそうに言った。
「ああ早いもんだねえ。卒業式の日はちゃんと帰るんだよ。お母さんご馳走作って待ってるから」
「ああ、まあ、わかんねえけど」
いい加減な返事をして、結局昇は卒業式の当日、やはり家には帰らなかったのだ。友達の家で祝杯をあげ、家のあるアパートに戻ったのは次の日の昼過ぎ、母はとっくに仕事に出ているはずの時間だった。カギを回しドアを開けた瞬間、昇はおやっと思った。電灯がつけっぱなしになっているのだ。いやな予感に靴を脱ぎすて、台所に一歩足を踏み入れた昇が目にしたものは、うつぶせに床に倒れている母の姿だった。割れた皿に混じり、母の周りには作りかけのいなり寿司が転がっていた。
昇の叫び声にアパートの住人が駆けつけ、母はすぐに救急車で病院に運ばれたが、その日のうちに息を引き取った。卒業のささやかな祝いの支度の最中に、心筋梗塞の発作を起こしたらしかった。母が長く糖尿病を患っていたことも、昇は医者から初めて知らされた。
深夜、母の亡骸と共にアパートに戻った昇は、床に転がったいなり寿司を拾い、テーブルの上の、皿に盛られた山盛りの唐揚げをほお張りながら、声を殺して泣いたのだった。
悔やんでも悔やみきれない過去だった。
星空の下、昇はブランコの上で、一生癒えることのない悲しみに頭を抱え、うめき声をあげた。その時だった。背中をだれかがトンと押した。ハッとして顔を上げる昇の背中をまた誰かが押してくれる。
「…かあさん…?」
思わず顔を覆う昇の指の間から、涙が膝にしたたり落ちる。背中に触れる手は昔と同じ、温かく柔らかな母の手だった。
「昇、泣くなんておかしいよ。ほら、押してあげるから、しっかりこいでごらん」
「かあさん…かあさん…」
昇は肩を震わせて泣いた。振り向けば母がいるのだ。
(だけど、どんな顔して会えばいいんだ)
キィー クゥー
キィー クゥー
母の押すブランコは、昇を乗せてなつかしい音色を響かせる。夜風が体をすり抜ける度、母に甘えていた幼い頃の素直な自分に帰っていく。いつしか昇の心は星空のように、清々と澄み渡っていた。
「おれ結婚したんだ」
「知ってる。奥さん、かわいい人じゃないの」
「十年前に家も買ったんだよ。中古だけどさ」
「ああ。丘の上にね」
「何でも知ってるんだな」
「そりゃあそうさ。おまえのかあさんだもの。もうすぐ二児の父親になるってこともね」
「ほんとうかよ?」
「さあ…。楽しみだね」
昇は、ハハッと笑い、腕に力をこめて大きくブランコをこいだ。星空が揺れる。
「かあさん…、ごめんな」
背中を押す母の手がふいと離れ、あわててブランコを止めた昇の頬を、温かい手のひらが包んだ。目の前に、なつかしい母の笑顔があった。
「あやまることなんかない。昇は立派にやってるじゃない。かあさんそれがうれしいんだよ」
ブランコのチェーンを握り締め、昇はもう泣くまいと歯を食いしばり、子どものように、うん、うんと何度もうなずいていた。
二日目 梶原巡査
川面はキラキラと月の光を跳ね返し、かすかな水音を夜の闇に響かせる。梶原巡査は小さな橋の欄干に腰かけると、コートの袖口を少しまくり腕時計を見た。
「もう二時かあ。まったく困ったもんだ。音の出所さえつかめないんだから」
梶原巡査はしんどそうにため息をついた。
「それにしても、なんともきれいな音だ」
青く深い夜空を渡るその澄んだ音色は、梶原巡査の心を落ち着かせる不思議な響きがある。
「日の出神社の方を回って最後にするか。無駄な様な気もするが」
昨晩から、すでに十件を超える問い合わせがきている。警察署では二、三日中に市から探知機を借りて、発信源を突き止めようという案も出ていた。
東に向かって走ること七、八分。梶原巡査は神社に続く石段の前でバイクを降りた。鳥居をくぐり石段を昇り始めた梶原巡査は、はたと足をとめた。前も後ろも黒々とした杉の森。まっすぐに伸びる木立の間、暗闇の彼方からあの音が響いてくる。
フュー フィー
フュー フィー
「上か!」
梶原巡査は石段を駆け昇った。二晩かけて探し回ったこの音の正体をついに突き止められるのだと思うと、胸の高鳴りを抑えられない。とはいえ、五十を越した梶原巡査の体力では、社まで登りきった時には、もう息をするのもやっとのありさまだった。それでもなんとか呼吸を整えて、音のする方へ足を踏み出した。森の闇に吸い込まれ、音は境内に響きわたる。
フュー フィー
フュー フィー
「まるで口笛のようだな」
そうつぶやいて目を凝らし、ぐるりとあたりを見回した梶原巡査は、ぎくりと動きを止めて体を固くした。社の横からせり出した太い楠の木の枝に、人影のようなものが見える。
「だ、誰かそこにいるのか?」
頑丈な一番下の枝にやはり誰かが座っている。そして音は間違いなくそこから聞こえてくる。
(口笛だ。やっぱりそうだった)
梶原巡査は腰の警棒に手をやりながら、硬い声で叫んだ。
「おい、降りてくるんだ!」
音がピタリと止み、人影が梶原巡査をじっと見つめる。警棒を握る梶原巡査の手のひらは、緊張のあまり、じっとりと汗をかいていた。すると、人影が口を開いた。
「なんだあ、仁史じゃないか」
「え?」
若い男の声に、梶原巡査の全身に震えが走った。それは大好きだった兄の声だったのだ。
「に、にいちゃん?」
梶原巡査は楠木の根元に駆け寄った。その目の前に、トンと降り立った背の高い青年は、紛れもなく事故で十九の春に亡くなった、八歳違いの兄、啓一だった。
「久しぶりだな、仁史。なんだかずいぶん貫禄がついたな」
「にいちゃんなのか? うそだろ、まさか…」
「他に誰がいる? こんな口笛うまいヤツ」
そう言うと、透き通る美しい音色でまた口笛を吹き始める。
突然、梶原巡査は声をあげた。聞き覚えのある旋律。
「あ、それ、その曲だよ。おれ、その先を忘れちまって…」
兄はチラリと梶原巡査に目をやると、得意そうに続きを吹きながら、社の縁に腰を下ろした。
「そうだ。うん、こういう曲だった」
梶原巡査は、まじまじとあの頃のままの兄の横顔を眺めながら、隣に座った。
啓一は優しい兄だった。年が離れているせいか、けんかをした覚えもない。家が商売をしていたこともあり、放りっぱなしにされていた梶原巡査にとって、兄は両親よりもずっと身近な頼りになる存在だった。泣きべそをかいたときは、いつも口笛で梶原巡査の好きなこの歌を吹いてくれたものだった。
今も同じその美しい音色は、森に囲まれた社の上の、ぽっかり開いた星空にゆっくりと渦を巻いて吸い込まれていく。
啓一は曲を吹き終わると、食い入るように自分を見つめる、まるで父親のような年恰好の弟に微笑みかけた。
「おまえ、模型作ってるか」
梶原巡査の目が子どものように輝いた。
「うん。やってるよ。にいちゃん、おれ今空母大鳳作ってんだ」
「へえ、それ、おれも作ったよなあ」
「うん、あん時はにいちゃんすごいって思ったもんだ」
「そしたら次は大和だな。あれはけっこう手を焼くぞ。その分出来上がりは立派だけどな」
「うん、そのつもりなんだ」
梶原巡査のまぶたに、子どもの頃、茶だんすの上にありがたそうに飾られていた見事な戦艦大和の雄姿が蘇る。
「そういや、にいちゃん、大鳳の高角砲、何色にしてたっけ」
「うーん、あれはな…」
口笛の止んだ杉の森に、ふくろうの声が聞こえてくる。月の光に照らされた社の小さな屋根の下で、楽しそうな話し声はいつ終わるともなく続いていた。
二日目 富子
「ちっ! ほら、やっぱり鳴ってるじゃないか」
トイレに起きた富子は、窓から鉄塔をにらみつけた。昼間、警察の要請を受けて、電力会社の検査員がこのあたりの数本の鉄塔を調べに来ていた。
「異常が見つからないから、音は別のところからでしょう、だなんて言いやがって。やっぱりあそこから聞こえるよ。間違いない」
富子はくやしそうに地団駄踏んだ。
「何にもしないで帰っちまって。鉄塔が崩れたらどうするんだい。この家なんかひとたまりもないよ。ああ、困ったねえ」
富子はしばらく家の中をうろうろしていたものの、仕方なしに寝床にもぐりこんだ。必死に目をつぶり、布団を頭からかぶってはみたが、音はしっかり耳に届く。
「ああ、いやだねえ、眠れやしない」
富子は顔をしかめ辛そうに起き上がると、ジャケットをはおって外に出た。
キーン コーン
キーン コーン
「ああ、鳴ってるよ、鳴ってるよ」
富子は、冷たい夜空にそびえる鉄塔を仰ぎ、玄関の前で立ちつくした。
「どうしようかねえ、どうしたらいいんだか」
空から容赦なく落ちてくるその音に、富子はたまらず耳をふさいだ。
「なんとかしなきゃあ。鉄塔が倒れてくるよ。なんだってみんな寝ていられるんだい」
富子は庭を出て隣の家の玄関に立ち、意を決してインターフォンに手をかけると、もう一度鉄塔を振り返った。その時だ。暗い広場のちょうど鉄塔の真下あたりに、白くぼんやりと、光が見えたような気がした。
「おや、なんだろう」
道路を渡り、広場のフェンス越しに目を凝らすと、やはり何かが発光している。
「あの光は普通じゃないよ」
恐ろしげな音が鳴り響く中、鉄塔に近づくのは本意ではないはずだが、富子はなぜか迷うことなく歩き出していた。
キーン コーン
キーン コーン
音は広場の暗闇に渦を巻く。その中を進む富子の足は次第に速くなった。怪しい光は音の響きに共鳴しているかのように、そのたびに小さくまたたいて見えるのだ。そうして鉄塔を取り巻く高い柵の手前まできたとき、富子は声をあげ、吸いつくようにその光に走り寄った。
「ああ、そんな…」
それは真っ白なタオルに包まれた赤ん坊だった。
「誰がこんなところに…」
富子は震える腕で赤ん坊をそっと抱き上げると、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
淡い光に包まれたその子の顔は、穢れを知らぬ天使のように富子には思えた。その安らかな寝顔を眺めながら、柔らかい頬にそっと指で触れた時、富子はハッとして手を引いた。
「この子…!」
富子の、見開いたしわだらけの両目から涙がひとすじこぼれ落ちる。富子は赤ん坊を抱きしめて、白いタオルに顔をうずめた。
「私の子…」
あれはもう五十年以上も前のこと。富子は跡取り息子の嫁として農家に入り、待望の赤ん坊を身ごもった。なかなか子どもの授からない富子に、周囲の態度が冷たく変わりつつあった矢先のことだったので、富子は喜びもひとしおだった。ところがある日、庭先から飛び出した一匹の猫に驚き、堅い敷石の上に派手にしりもちをついた。不幸にも子どもはそのまま流れてしまい、医者からは、もう妊娠は望めないだろうと言い渡された。嫁のとんでもない不始末に、家族の態度は冷酷だった。富子はやがて追われるように家を出て、それから今に至るまで、たったひとり孤独に耐え、日々の暮らしを必死に重ねてきたのだった。
ねんねこさっしゃりませ
歌うことなど一生なかったはずの子守唄が、富子の口からこぼれ出る。赤ん坊は富子のやせた腕の中で、スヤスヤと小さな寝息をたてている。深い悲しみに刻まれた富子の顔は、いつしか優しい母親の笑顔に変わっていった。
いつの間にか怪しい音は止み、鉄塔の下、富子の歌う子守唄は、満天の星空に、深く静かにしみわたっていった。
三日目
朝の光が、レースのカーテンを通してキッチンにあふれている。今日は久しぶりの休日。夏美は一通り家事を済ませると、一息ついて、コーヒーを入れるため、ケトルを火にかけた。お湯が沸くまでの間、夏美はテーブルに頬づえをつき、昨晩の不思議な出来事を思い出していた。数時間前、小鳥の声に目覚めたとき、夏美はこのテーブルの上で、突っ伏していたのだった。
「あんな夢を見るなんて。頭痛薬のせいかなあ」
けれど、夏美の心は温かく、昨日までの重苦しい疲れも、不思議なくらいすっきりと消えている。
「いっぱいグチ聞いてもらったからかも。久しぶりに会ったのに、かわいそうなたけちゃんだな」
夏美はクスリと笑った。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けると、私服の梶原巡査が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「分かりましたよ、あの音の正体!」
「え、なんだったんですか?」
「それが、鳥らしいんです」
「鳥?」
夏美の声が裏返る。
「鳥の声には聞こえないわ」
「ところが鳥だそうです。トラツグミっていうね。ヌエともいうそうですよ」
「ヌエって、聞いた事あるなあ。妖怪じゃなかったっけ…」
「そういう不思議な声なんですよ。渡り鳥らしくて、四月から六月くらいまで、繁殖のためにやってきて、夜じゅう例の声で鳴くそうです。妖怪扱いされるのも無理ないでしょう。いやね、町内に鳥に詳しい人がいましてね、この音についての問い合わせが増えてるってことを知ったそうで、今朝、署に知らせてくれたんですよ。なんでも、何週間か前に、小学校の裏山でつがいを確認しているそうです。二羽で互いに鳴き合っていたんでしょう。実に二十年ぶりくらいだそうですよ。それで、さっそくネットで調べて聞いてみたら、さっき私も聞かせてもらいましたが、まさにあの音なんです。検索してみてください」
「はあ…」
「まあ、100%ではありませんが、鳥という可能性が高いということですかね」
話が終わり、ドアを閉めた夏美はスマホに飛びついた。トラツグミで検索をすると、驚くことに、たくさんの動画がアップされていた。一つを開く。
真夜中の森の映像。そこに突然響くあの音。
リーン ゴーン
リーン ゴーン
「ああ、この音だ…」
昨晩の、武史と出会った丘の上の情景が、目の前に浮かび上がる。夏美は小さくため息をついた。今まさに夢から覚めたような気分だった。
「鳥かあ、鳥だったんだ…」
お湯が沸き、ケトルがけたたましく鳴り出した。夏美があわてて火をとめると、綾香が子ども会の公園掃除から帰ってきた。
「あー、やっぱり朝はまだ寒いね! なんかあったかいもの飲みたい。カフェオレ作って!」
夏美はお湯をポットに移しかえながら言った。
「綾香、あの音ね、鳥なんだって」
「へえ、そう。なあんだ、つまんない」
「ねえ、綾香。昨日、夢でね、久しぶりにママ…」
「そうそう、昨日の夜、パパ来てたね!」
綾香の言葉に夏美は危なくお湯をこぼしそうになった。
「私のおでこ何度もなでて、その後ママとずっとここで話してたじゃない」
「え…?」
言葉の出ない夏美の唖然とした様子を見て、綾香はコロコロと笑った。
「夢だよ。夢。パパの夢見ちゃったの」
夏美はケトルを乱暴にガス台に戻すと、綾香に飛びつきギュっと抱きしめた。綾香は驚いて笑いながら悲鳴をあげる。
「やーん! そんなにびっくりした?」
夏美は父親似のおでこにかかる綾香の前髪に、そっと指を当てた。昨夜の優しい時間が蘇り、夏美の胸を熱くする。
「びっくりした! ほんとにびっくりしたんだから!」
夏美はもう一度綾香を抱きしめると、声を弾ませた。
「綾香、特別なミルクティー入れてあげる。今日は後で買い物にも行くからね。それからなんかおいしいもの食べようか!」
リビングのソファーに寝転んで、昇は庭を眺めていた。南向きの小さな庭に、満開のレンギョウの黄色が鮮やかだ。
「はい、パパ。コーヒー」
百合子がテーブルにコトリとカップを置いた。
「どう? 熱出そう?」
「いや、たぶん大丈夫だろう」
「それにしたって何でブランコなんかでうたた寝してたのかしらね。信じられないわ。風邪引かないわけがないじゃない」
「なんでだかなあ、おれも信じられません!」
そう言ってからだを起こすと、昇は熱いコーヒーに口をつけた。
公園のブランコの上でふと我にかえり、空気の冷たさに身震いしたのは、すでに朝を迎える頃だった。あたりは白々と明るく、金星が夜明けの空に薄く光を残していた。昇は狐につままれたように公園を後にし、軽い頭痛を感じながら、階段を下り家に戻ったのだった。
「ねえ、さっき綾香ちゃんのママから電話があったんだけど、あの音ね、鳥だったらしいわよ、トラツグミっていう。ヌエともいうらしいんだけど」
「ヌエ?」
百合子から一通り話を聞き、昇はスマホで鳴き声を確かめると、コーヒー片手に笑い出した。
「ふーん、確かに鳥なら、しかも二羽っていうんなら、どこから聞こえるのか特定できなかったのもうなずけるな。だけどそのヌエ、けっこうほんとに怪鳥かもな」
「ほんとね。パパの奇行はそのせいかな」
百合子もフフッと笑う。
(ほんとに、いい夢見たよ)
昇は背伸びをし、サイドテーブルに重ねてあるリフォームのカタログに手を伸ばした。
「和室、作るか」
「ほんと? いいの? パパ」
「そのかわり、せっかく作るんだから、おかあさんにちょくちょく来てもらえよ」
「うん! ありがとう」
百合子ははちきれそうな笑みを浮べ、昇の隣に寄り添って座った。
「あのね、来週病院に行ってくるわ」
「どうしたの? どこか悪いのか?」
「うーん、なんだか…もうひとりできたみたい」
「え!」
百合子は手のひらでお腹のあたりを押さえ、飛び出しそうな目をした昇に、今度ははにかんだように笑う。
「たぶん…ね」
昇は思わず百合子を抱きしめた。
「やったな! 家族が増えるぞ!」
窓から見える向かいの山は新芽に淡く色づいて、パステルカラーの絨毯のようだ。
(二児の父親か…。かあさん…)
富子は、庭から切ってきた水仙の花を仏壇に供え、中を念入りにふき清めると、ほっとして座りなおし、手を合わせた。
今朝のことだった。鉄塔の下で座り込んだ富子の耳に、どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえてくる。腕の中に、温かい確かな息づかいを感じながら、冨子がふと目を開けると、もうあたりは薄明るくなっていた。
「しまった、こんなところで寝ちまって、この子が風邪を引いちまう」
そうして、胸に抱いた白いタオルの中をそっとのぞいた冨子は、ひっ!と声をあげた。富子に抱かれ、幸せそうな寝息を立てる小さな命は、人間の赤ん坊ではなく、真っ白な子猫だったのだ。
「こ、こんなことが…」
富子は震える足で立ち上がると、子猫を抱いたままうろうろと鉄塔の周りを歩き回った。
「どういうことだい。猫なんて、猫なんて」
けれど、目を開けて自分を見上げる子猫の、澄んだ瞳を見つめるうちに、肩の力が抜け、とうとう富子は深くため息をついた。
「やれやれ。とんだものを拾っちまったよ」
そうつぶやいてはみたものの、富子のまなざしは温かで、思わず浮かべた笑みには、ほのかな希望の色が差して見えた。
昼近く、洗濯を終え、ひさしぶりに布団も庭に干して、買い物に出ようと富子が玄関を出ると、家の前にバイクが止まった。降りてきたのは梶原巡査だった。
「おばあちゃん、わかりましたよ。音の原因が」
「なんだい、今頃。鉄塔だろう? 昨日もすごかったよ」
「いやいや、安心していいからね。鳥なんだって。鉄塔じゃなかったんです。ほらおばあちゃんも知ってるでしょ、町内会長の竹中さん、日本野鳥の会にいた。あの人が教えてくれたんですよ。ちょっと前に山で見つけて写真を撮ったんだって」
「ああ、あの竹中さんかい」
「それが、ああいう声で鳴く鳥なんだね。おれも聞いたけどね。なんとも人騒がせなやつらですよ。まあ鳥っていうなら、それならそれで、もうこれからは気にしなくたっていいでしょう。危険はないんだから」
「ふーん。まあじゃあそうなのかね」
早く安心させてやろうとバイクを走らせた梶原巡査は、あっさりと納得した富子の様子に拍子抜けし、なんとなく間が悪そうに、狭い庭を見渡した。
「あれ、なんかさっぱりしたと思ったら、おばあちゃん、どうしたの、ペットボトル」
「ああ。あれかい。あんなの何本あったって、何の役にもたちゃしないよ。うっとうしいだけだからね。片付けちまったよ」
富子はすました顔で梶原巡査に背を向けてドアにカギを差し込んだ。ちょうどその時、サッカーボールが梶原巡査の足元で激しくバウンドして、富子の家の庭に飛び込んできた。
「やば!」
誰かが後ろで声をあげる。梶原巡査が振り返ると、小学生の子ども達が広場のフェンスの向うから不安げにこちらを見ていた。
「早く取りに来なさい」
梶原巡査に言われ、一人がフェンスを大きく迂回してやってきた。富子はボールを抱えて道路に出て、待ち構えるように立っている。
「なあ、きみたち、『やば!』じゃないだろう。真っ先に言うことがあるんじゃないか?」
梶原巡査としては、いつものように富子が怒鳴り出し、面倒なことになる前に、さっさと叱って終わらせる心づもりだったのだが、どうやら今日は少し様子が違う。目を向けた富子の顔は穏やかだった。
「ほら、ボール。気をつけんだよ。せっかくの花が折れちまうからね」
「はい…。すみません」
男の子はペコリと頭を下げて、また広場に駆けていった。
(めずらしいこともあるもんだ)
梶原巡査はまじまじと富子を眺めた。
「なんだか今日は優しいねえ、おばあちゃん」
富子はフフンと鼻を鳴らし庭に戻ると、家の脇から古びた自転車を引きずり出した。
「さあて、こうしちゃいられない。早く行かなきゃ売り切れちまう。今日は刺身の特売日なんだよ。ありがとうね。ご苦労様!」
富子はにっこり笑いかけた。初めて見た富子の笑顔に目を丸くする梶原巡査を残し、富子は力強くペダルをこいで、さっそうと広場の横を走り抜けていった。
風もなく、穏やかな日差しが足元のクローバーをゆっくりと温めている。梶原巡査は広場のフェンスに寄りかかり、ボールを追いかけて走り回る子ども達を、のんびりと眺めていた。
「それにしても、鳥だったとはなあ」
薄雲にかすんだ青空の下、新緑の山が横たわる。
「さてと、午後はプラモ屋にでも行ってくるか。塗料も少し足りないし。だいたい非番の日に何しようとおれの勝手なんだ。かあさんや佐和子に口出しする権利はないってもんだ。なんてったって模型はおれの趣味なんだからな」
梶原巡査はよっこらしょと背を正すと、空に向かって呼びかけた。
「なあ、にいちゃん!」
バイクに向かう足取りは軽く、いつしか梶原巡査は口笛を吹いていた。かすれた音色は、お気に入りの流行歌を、今日は最後まで奏でるのだった。
不思議な音は、それからしばらくの間この町の夜空に鳴り響いた。けれど、音の正体がどうやら鳥らしいということが知れわたると、住人にもようやく安眠がもどり、いつしか話題にも上らなくなった。
おわり