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源・流・遊・行

朗報自然の中に入ると、創造性がぐーーんと上がるらしい。

詳しくはこちら (genryu-yugyo.com)



※今回は(社法)長良川カンパニーの方々にご案内して頂きました
Photo by @Haruki Okano


白い山の女神

その昔、東京・上野から金沢を7時半かけて走り通す特急列車「白山」号があった。


碓氷峠を皮切りにいくつもの峠を越え、いくつもの国をまたいで裏日本街道をひた走ると、愛称の由来である白山を望む終着・金沢に到着だ。


今も昔も白山は、人々のあこがれの対象でもあり、畏れの対象でもある。


人間という生き物は、超越的な信仰対象に対し、あこがれと畏れという両極端の感情を同時に抱いてきた。



例えば、マタイによる福音書では、「嵐を鎮めるイエス」の姿が述べられている。

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖(海)に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すかっり凪(なぎ)になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。


所謂イエスの奇跡物語の一部分である。

重い皮膚病の人を癒し、目の見えなかった人を見えるようにしたりと、様々な「下層に位置する」人々に神の福音を伝える一方で、嵐を鎮める全能性故に人々は慕いつつも恐れを抱く。

この浮動的な感情状態が、人々の心のうちに信仰心を生むのではないだろうか。


それは、日本でも例外ではない。

例えば、古くから息つく山岳信仰などはそれであろう。


地域にもよるが、日本の一般的な信仰形態は「アニミズム」かつ「多神教」だと思う。

そこでは信仰対象は身近に存在する「オブジェクト」である。

人々は、それらへの畏れと同時に、自らは「エコシステム」の一員であるという意識が上る。


「水」への感謝

過去の先人たちが積み上げてきたそうした自然への思いを、身を以て体に染み込ませることが出来る場所が、日本列島の真ん中にあった。


ここは、岐阜県・郡上。長良川水系の豊かな水と、飛騨山脈の母なる山々に恵まれ、人々は「自然」に感じる。


8月某日、地域大学「さとのば大学」のプログラムで、郡上に滞在している。結構現在進行形。


ある日の夜、僕たちをコーディネートしてくださっている方の1人からメッセンジャーが届いた。

白山連邦を見上げる高鷲(たかす)という地域に、長良川の支流で昔から伝えられてきた源流が存在するらしく、翌日に行ってみないかというものであった。


その場のノリで「行きます!」と即答。


そこに何が待ち受けているのかも知らずに・・・・


源流へのいざない

翌日、住まわせてもらっている郡上八幡のシェアハウスから車に乗せて頂き、長良川の流れに沿って北上すること1時間半。

長良川を取り巻く風光明媚な風景、その清流は本当にきれいだ。


ここにいるだけで、本当の自分に還ることが出来るような気がする。


でも、これはまだ序の口だ。

身体性回復


走っていると、突然、枝分かれする怪しげな道が現れた。

うねうねと進むこと15分。ついに行き止まりに到達。


車を降りると、僕たちを待っていたのは、何人かの変わった大人たち。

右手には草刈り機を携え、ウエットスーツを着ていかにも準備万端な様相だ。

ちょっと、これ持ってってくれる?

言われるがままにとりあえずカマを持たされ、とりあえず山道へ入っていく。


まずは草刈り機を持つ人を先頭に、伸びきった草を刈りながら山道を進んでいく。

山道は草で生い茂っていた。一冬の間にこれだけ草が生い茂ってしまうのだから、人間が管理しない限りは伸び放題。


草刈り機やカマで草をかき分けていくように、自らの手で道を切り拓いていく過程は、とてもワクワクする。

歩いているうちに、山路に自分自身を投影していることに気付いた。単純に、自らの本能的な興奮が草を刈らせている。それだけではなく、山路にここまでの19年間の人生の姿を重ね合わせていた。

自分の手で未知の世界を切り拓いていく興奮は、何事にも代えがたい。



次第に道がやや険しくなり、非常に「山道感」が増していく。

単純に言って、最高! 


このように、まずは山路を切り開きながら、ベクトルが乱れた心身状態を落ち着かせていく。

目的地である、エメラルド色が輝く源流へ向かって。

「畏れ」と「感謝」


山道を進むこと1時間半、次第に山路の右手に川を見下ろすようになってきた。

左手には、当地ならではのスコリア岩が、僕たち一行を待ち受けていたかのようにそびえる。 

以前から、地学的な造形美を持つ心象風景が憧景の1つであった。

我々人類の想像を遥かに超える自然の営みには、大いなる畏れを抱かずにはいられない。

湧水もまた、道の途上に滴っていた。ここはかなりの源流域に入っているので、水もまだきれいだ。

しかしながら、頭上を見回すとスギの木が目立つ。 戦後に急ピッチで進んだ森林伐採の穴埋めとして、大量に植樹されたものが多い。

案内してくださった方によると、スギの密度が高いことから日光が届かず、自然の分解作用が機能しなくなっている。

その場所にあった種類、いわばネイティブな種類でなくては、生態系のシステムにおいて不都合が生じてくる。 画一的な「自然観」を押し付けることは、企業が行っている「植林活動」にも通ずるところがあると、その人は言う。


私たちが何気なく「きれいだ」と思っている山の景色でも、実際には元々の種を人が減少させたこと等で、人工的に再現されているケースは枚挙にいとまがない。


やっぱり、山菜がおいしい! 食用だけじゃなく、香料の原料として高値で取引されてもいるそうだ。 


しかしそれゆえに、企業の「触手」が伸びてくるのは、必至である。 実際に、既に源流域一帯を購入した企業もあるそうだ。


資本主義経済が持てる者と持たざる者を生むとは、よく言われたものだ。

「お金」という万能兵器さえあれば全てがまかり通り、非物質的価値が無視される社会が続くと、私たちはどうなってしまうのだろうか。

私たちも、資本主義経済の恩恵を受けていることは事実だ。しかし、昨今の環境問題やパンデミックはその限界を示している。


脳裏でそのような考えが飛び散りつつも、山道をひた進む。

段々と、川が目前に迫ってきた。ふと道脇を見ると、地蔵が私たちの道のりを見守っていた。



それに守られたのだろうか、目的地に無事に到着した。


未来の地図は想像力


自然にできたとは思えない、エメラルドの湧水。

ここで、「興奮」という感情が、「感動」と「畏敬」へと二分化された


息つくまもなく、案内して下さっている方々は、早々と水着に着替えて源流を上り始めた。


え、行くの!


置いていかれまいと、後を追う。

しかしながら、後を追っているうちに自分の殻が破られていくような心持にさせられる。

水の流れというダイナミックな「動」的心象風景と、それを抱く雄大な「静」的な山のコントラストが、東京で凝り固まった僕の人間性を外側から破っていく。


進めるところまでは、とことん進んだ。

もうダメか・・というところまできて、遠くから怪しげな轟音が聞こえてきた。


雲行きが大分怪しくなってきたこともあり、ひとまず引き返す。

大分奥まで進んでしまったこともあり、戻るのも相当な道のりだ。


嵐の前の薄暗さと、遠くで聞こえる雷。

僕たちは、所詮人間だ。人間は、本来心の底から「湧き」出る本能的な好奇心を備えている。

そう、

振り返ると、ただただ未知の世界を一目見てみたい一心で、川を上っていたことに気付いた。


うたかたの憧景

しかし、自然はその野望をいとも簡単に打ち砕く.

まるでバベルの塔の如くに。


その「見えざる力」を、川を上りながら感じずにはいられなかった。


迫りくる雨雲から逃げるように川を下り、元来た山道を帰っていく。

自分の魂を置いてきたような無心感と、新しくされたヒューマニティが交錯することを悟りながら、山路を後にした。




こうして、源流の旅は終わった。

今でも、あの地に何か忘れ物をした感覚にさいなまされることがある。

そこに置いてきたものは、もしかすると自分自身の傲慢さだったのかもしれない。




このように、「川旅」で身も心を洗いたいと思った人は、是非こちらへどうぞ。

行ってらっしゃい。











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