身障者のスタート~そして祖父
こんにちは。今日も続きをお話ししていきたいと思います。
身障者になって2年間のリハビリを続けたあと、身障者枠で事務職としての仕事が決まった。私としては、早く仕事をしたい反面、身障者として働くことになる緊張感は半端なものではなかった。どんな風に見られるんだろう?とそればかり気にしていた。でも、私自身、見た目では身障者に見られないことの方が多い。でも、みんな理解があったから無事に働くことができた。最初の段階では・・・
仕事を始めてから4年くらい経った時に、実家の祖父が脳梗塞で倒れた。実家が田舎だったため、私が住んでいる街の病院へ搬送された。その当時満98歳。とにかく元気でいつも自転車に乗っていて、カラオケが大好きな祖父だった。その祖父が倒れ、98歳にして人生初めての入院生活となった。
私が住んでいる街と実家は1時間くらい離れていて、祖父の入院中は仕事帰りに私が毎日病院へ行き、寂しくないようにしていた。そのほか、必要なものも揃えたり。祖父は、私の母の実の父親で、母には離れたところに妹が一人いる。最初は、私が病院に近いからと言ってずっと通っていた。
ある日、病院から、退院後のことで聞かれた。要するに、今後自宅で介護するか、もしくは施設に入所するかということだ。そんな段階になっても実の娘(母と叔母夫婦)は何も言わず、痺れを切らした私がみんなを集めて今後祖父の退院後の事を話し合うことにした。母は、精神疾患もあるので自分から意見を言うという人ではない。でも叔母はいくら嫁いだとしても娘には変わりない。だから何か言ってくれるだろうと思ったけど、無言だった。
悔しくなったけれど、私の意見を言った。「私の住んでいる街に家を探して引っ越してきておじいちゃんの介護をする」と。実の娘がいるにもかかわらず、私が言わないと動いてくれないということに、非常に憤りを感じた。寝たきりの祖父をそのまま放っておけなかったから、私は私の言うべきことを言った。
それから、仕事が終わって毎日病院へ通いながら家探しをしたり、介護認定の手続きをしたりいろいろな準備にとりかかった。それも私一人で。いろいろ言いたいことはあったけど、我慢我慢と思ってへとへとになりながら毎日準備に時間を費やした。
家が決まり、引っ越しすることになった頃、担当医から今後の話を聞かされた。引っ越しをすることにしたことを話したところ「介護をするために引っ越しをするなんてことは今まで聞いたことがない」と言われた。私にしてみたら当然の事だったのだが・・・
そして私の実家+私のマンションの2件分の荷物を運び、今の家に引っ越してきた。そしてまもなく、祖父が退院して家に帰ってきていよいよ在宅介護の始まりとなった。
祖父が受けていた介護サービス。【要介護5】【身障者.重度肢体不自由1級】 ①訪問介護(ヘルパーさん)一日3回②訪問看護:週2回 ③訪問入浴:週1回 ④訪問診療:月2回 その他訪問歯科を受けていた。祖父の年金の範囲内でできる限りのサービスを受けさせてあげた。そのため、毎日何人もの人が出入りするので、朝早く起きて掃除をし、祖父の食事も作っていた。ここで調理師免許が役に立った。誤嚥性肺炎を予防するために、小さく食べ物を刻んですべてにとろみをつけた食事。へルーパーさんにお願いすることもできたが、食事だけは私が作ると頑なに断っていた。
昼間は、母が祖父を見ていてくれるので、夜はリビングに布団を敷き、祖父の部屋の隣で寝て、おむつ交換等のお世話を私が行った。その当時、床ずれ防止用の電動ベッドをレンタルできたので、それだけでも助かった。でも眠かった。やっぱり昼間は仕事をしているから、小刻みに起こされたりするとどうしても寝不足になってしまい、通勤はバスだったので、バスの中で少しの間目を瞑ったら寝過ごしてしまったこともあった。
介護をしていて、どうして私が中心になってやらなきゃいけないのか、何で叔母達が中心になってやってくれないのか、本当に腹が立った。叔母は、仕事をしていたので月に2回くらいしか来れなかった。申し訳ないとは言いつつも私に任せっきり。ストレスが溜まり、母も私も体調を崩したこともあった。そこで、ケアマネージャーが「施設の申込だけでもしておいたら気持ち的に楽になりますよ」と言ってくれた。施設に行かせることはさせたくなかったが、周りの者が潰れてしまっては何もならないから、数カ所、施設の申込だけをすませてきた。どこも、数百人待ちの状態・・・
大変だったけれど、祖父はいつも頑張って食事を全部食べてくれた。それが何よりもうれしかった。右半身不随になり慣れない左手で一生懸命食べてくれた。調理の仕事をしていてこんなところで役にたつとは夢にも思わなかった。夜のおむつ交換も大変だった。夜中に起こされて交換するけど、でもその時に「今こうやってやっていることは、必ず何か意味があることなんだ」と自分に言い聞かせて毎日続けた。
自宅で介護をしてしばらくたってから、一度母が倒れたため、特別養護老人ホームのショートステイを利用してみることになった。最初は1泊2日から。そして3日~4日に日数を増やして、母にも楽をさせるようにしたのだ。そうこうしているうちに2年程たった。
ショートステイから帰ってきたあと、食事を全くとらなくなった祖父を見て変だなと思い、看護師に連絡をする。よくよくみると、口の中が白くなっていてそれが沢山あって、そのせいで食べれないということがわかった。その後、口の中に塗る軟膏や薬をもらうが、あまり良くならなかった。そのうちに、訪問診療の医師からお話があると言われた。高齢なこともあり、もう点滴等もリスクがあってできないと。。あまり長くはもたないだろうと宣告された。この前まで元気だったのに、急激に弱っていく祖父を見て悲しくなった。
そしていよいよ・・仕事中に母から連絡が来る。看護師さんも来てくれていて、そろそろだと。慌てて帰宅してみると、呼吸が浅くだんだん間隔が長くなっていた。もう、お別れの時が近いんだなと思った。それからまもなく眠るように静かに逝ってしまった。
無事に葬儀を済ませ、この家は、ぽっかりと穴が開いたようになった。今ままで毎日、沢山の人が出入りしていたのがピタッと止まったから。
四十九日までの間に、母と祖父のお骨を持って、以前の実家、以前の職場などなど、いろんなところに出かけた。少しは喜んでくれるかなと思って。
私がここまでできたのは、高校生の時に私が部活で朝練があるために、高校のある街に祖父と一緒に3年間住んで、いろいろ世話をしてくれたから。そして一人しかいない孫だと周りに言って自慢していてくれたから。
寝たきりになって何もかもが変わり、この家に住んで最後まで介護していたことを祖父は、天国で少しでも喜んでくれていたら嬉しい。
今日はほぼほぼ、祖父の話でした。
長くなりましたが最後まで見ていただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?