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オルガニスト・フォーレ
オルガン研究会 No.4「フランス」
ちょうどクリスマス時期ということもあり、年末の会ではいつもノエルを皆さん選びます。
私はアテニャンからフォーレまで弾こうかと欲張っています。
ガブリエル・フォーレ (1845〜1924)
フォーレのオルガン作品 2曲。
IL est ne le divin enfant (彼は神の子として生まれました)
作曲:1888
出版;1923
Noel du enfants Cantigue populaire
作曲:1890
出版:1921
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左から2人目がフォーレ
フォーレは9歳でニデルメイエール音楽学校に入学、そこでサン・サーンスに学んでいます。サン・サーンスの短い教師生活の中で重要な出会いがあったのです。
1865年、20歳で卒業後のオルガニストになり、1874年にはサン=シュルピス教会からマドレーヌ寺院へと移り、たびたび演奏旅行に出かける首席オルガニストのサン=サーンスが不在の間、副オルガニストとしての任に就いた。サン=サーンスの言によれば彼は「自分がそうなりたいときには第一級のオルガニスト」であったという。フォーレは定収入が得られるが故にオルガンを弾いていたに過ぎず、ピアノの方をより好んでいたのである。デュシェンJessica Duchen (イギリスの音楽ライター、小説家、劇作家、オペラ台本作家)。イギリスでは当時フォーレは人気があったという。は彼が能動的にオルガンを嫌悪していたのではないかと推測するが、なぜなら「これほどのニュアンスの精緻さ、そして官能性を持つ作曲家には、単純にオルガンでは繊細さが不十分であった」可能性があるからである。(wiki)
20世紀へ入って、フォーレの音楽はイギリスで人気を獲得し、さらにドイツ、スペイン、ロシアでの人気も遅れて後を追う形となっていた。彼は頻繁にイングランドを訪れており、1908年にバッキンガム宮殿に招かれて演奏を披露したことがきっかけとなり、ロンドンをはじめ各地へ活躍の場を広げていった。1908年にはロンドンでエルガーの交響曲第1番の初演を聴き、作曲者と食事を共にしている。エルガーは後に共通の知人であるフランク・シュスターへ宛てて、フォーレは「そうした本物の紳士だった - 最高のフランス人、私は彼を大いに称賛した」と書き送っている。(wiki)
いろいろ証言がありますね。
フォーレらしい美しい和声が響きます。
今回はオルガンソロでこの2曲を加えようと思っています。