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マリー・ブランシェ・セルヴァ 2

先日に続き、マリー・ブランシェ・セルヴァ。
1901年にパリ・スコラ・カントルムの教授になり、その後フランスやチェコで重要なポジションを歴任します。
ここで気になったのが、
「ワンダ・ランドフスカが21歳の時(1900年)にパリのスコラ・カントルムに招かれ教鞭をとる。同年にヘブライ民族(英語版)の音楽の研究者だったアンリ・ルーと結婚し、彼の影響でチェンバロに関心を持つようになり、やがてチェンバロの復活と普及に力を注ぐことになる。」(wiki)

パリ・スコラ・カントルムは、1894年にヴァンサン・ダンディが、パリ音楽院に対抗して設立した音楽学校で一般的には、古楽を実践的に復活させた音楽学校として有名。

スコラ・カントルムの有名な教員に、フォーレの愛弟子ナディア・ブーランジェがいる。有名な卒業生にアルベール・ルーセルやエリック・サティなどがおり、日本人の音楽家でも高木東六など著名人が少なくない。

セルヴァは同郷スペインの作曲家の作品を録音してます。


マリ=ジョゼフ=アレクサンドル・デオダ・ド・セヴラック(Marie-Joseph-Alexandre Déodat de Séverac, 1872年7月20日 オート=ガロンヌ県サン=フェリックス=ド=カラマン – 1921年3月24日 ピレネー=オリアンタル県セレ)はフランスの作曲家で、郷里ラングドックの伝統音楽に深く根付いた作品を創作し、クロード・ドビュッシーから「良い香りのする音楽」「土の薫りのする素敵な音楽」と好意的に評された。

スペイン貴族に連なる旧家に生まれる。地元のトゥールーズを去ってパリに行き、パリ音楽院に対抗して設立されたスコラ・カントルムに入学して、ヴァンサン・ダンディとアルベリク・マニャールに作曲を、アレクサンドル・ギルマンにオルガンを師事する。イサーク・アルベニスの助手を務めるとともにその個人指導を受けた。その際、アルベニスの未完の絶筆《ナバーラ》を補筆している。アルベニスの死後、南仏に戻った。
歌曲や合唱曲の作品で知られるが、ポール・ヴェルレーヌやシャルル・ボードレールによるフランス語の詩のほかに、プロヴァンス語やカタルーニャ語の詩にも曲付けした。より個性的なピアノ独奏曲も高い評価を勝ち得ており、曲や曲集は、《ラングドックにて En Languedoc 》や《日向で水浴する女たち Baigneuses au soleil 》というように、情景喚起的な題名が添えられている。人気のある作品の例は《古いオルゴール The Old Musical Box 》だが、傑作は、ラングドックの郷里色ゆたかな組曲《セルダーニャ》(1908年~1911年)と《日向で水浴する女たち》(1908年)である。歌劇《風車の心 Le Cœur du moulin 》は1909年12月8日にパリのオペラ=コミック座で、《エリオガバルス(フランス語版)Héliogabale 》は1910年にベジエで初演されている。(wiki)


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