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1 「詩は散文である」について 第一回
工藤正廣
この冬一か月ばかり新しい物語を書きおえて思ったことを少しまとめておきたい。わたしが師と仰ぐロシアの詩人パステルナークのことばに、「詩は散文である」というのがあって、このことばに出会ったのはもう半世紀も以前のことだったが、それから気がかりで、その後なんどとなくこの命題にふれて書いたりしたものの、どうにも居心地が悪かった。『ドクトル・ジヴァゴ』を翻訳して、その真意が分かったように思ったが、それでもまだ不十分だった。
それがこのたび、はたと分かったように思った。自力で稚拙ながらも、詩のことばつきで長い物語の散文を書いてみて、ようやくのみこめたというようなことだった。
ごく普通に読んで、誤訳しようもない「詩は散文である」というとき、ここの「詩」はポエジーであり実際の詩篇でもいっこうにかまわないが、それがいきなり連辞によって「散文」ブローザである、と言われたら、混乱するだろう。普通に考えて、詩が散文であるわけがないではないか。というわけで、ここが間違いのもとだったのだ。
パステルナークが一見舌足らずに言ったかにみえるこの命題の真意は、「詩から散文」が生まれるというようなシンプルな意味だったのだ。これなら実に明瞭でシンプルなことだ。たとえて言えば、一篇の詩から、散文が生まれるということだ。詩とはそういうものの謂いだ、ということだ。そのとき散文というのはいわゆる日本では小説というように言い慣わしているような小説散文ではないらしい。もっと平易に言えば、詩がある散文小説と言ってもいいだろう。
ならば、この逆は成立するのだろうか。「散文は詩である」というような命題だが、わたしの理解では、これも成立すると実感するのである。
つまり、散文は詩を生み出す、というように考えると分かりやすいだろう。
以前は、わたしは、「詩は散文である」をそのまま真に受けて、詩篇の中にとにかく多くの散文的細部の描写を持ち込もうとした。詩篇が事物だらけになった。そうすればそうするほど、詩は遠のいた。
そういうことではなかったのだ。良い詩は良い散文を、悪い詩は悪い散文を産むのである。いや、悪い詩からは散文は生まれない。(現代の詩はこれである。)
こうして、詩と散文は、互換的な往復を行うのである。
ここで、「散文」というのは、いわゆる小説言語的な作品のことだと理解していいだろう。もっと突っ込んで言うと、(一篇のすぐれた)詩は、散文小説を生む。 (つづく)