小松未歩画伯が描いた『砂のしろ』の夏
今年の7月はまだ比較的過ごしやすい気がします。ただやはり梅雨なので湿度の高さは快適とは言い難い、いやもうかなり不快であるとしか思えないくらいです。
夏ですね。
そんな夏は日本の音楽シーンで最も扱われている季節です。
始まりは元気よく、真っ盛りなタイミングで弾けて終わりはしっとり。同じ夏の中においても雰囲気をガラリと変えられる特性を持ちます。
今回のテーマである小松未歩さんの22枚目のシングル『砂のしろ』も季節は夏。
曲の雰囲気からすると夏の終わり。
イメージとしては8月の終わりくらいでしょうか。
クセが強くて主人公に思いが至らない夏
そんな『砂のしろ』ですが、極めて個人的な感覚なのですが…。
主人公の存在感が薄い
言いかえれば、主人公のストーリーに興味が湧かないのです。
それよりも
・灼熱の風
・サーフグリーンの波
・轟く雷鳴
こんな奴らを従えて、帆を上げて迫りくる「夏」の方に興味が行ってしまいます。
夏怖っ
と思わずにはいられません。
どうしちゃったんだよ、夏。
どんよりした雲に時折稲光とゴロゴロとした音を響かせ、ちょっとオドロしさを含んだ色の波のなか灼熱の風を操り帆を上げて迫りくる。
半端ない迫力にただただ恐怖を覚えます。
砂のしろのように脆いあなたと主人公の関係。儚い運命。
なるほど確かに心の琴線に触れるものがあります。
しかしそんなものを吹き飛ばしに来る夏の荒ぶりに私は心奪われてしまっています。
この「夏」てヤツはどんな形相で、どんな格好で主人公達に迫りきているのか。主人公達なんかよりよっぽど興味があります。
いえ、分かってますよ、私だって。
・灼熱の風がかき乱す
→脆い砂のしろをじわじわ削る内なる不安、予感。
・サーフグリーンの波
→砂のしろを崩壊させにくるもののカウントダウン
・轟く雷鳴
→忍び寄る不穏な空気。
そういったものを表し、主人公の心理とシンクロさせている。そう理解はしてます。
それでもやっぱり思うんです。灼熱の風、波、雷鳴を引き連れてやって来る「夏」のなんと存在感の強いことか。
あくまで自分自身の感覚とはいえ主人公を差し置いて「夏」にここまで目が行ってしまうのはなんとも不思議です。
なぜこんなにも主人公に対してそんなに思いを馳せられないのか。私なりに考えてみました。
この『砂のしろ』という曲において一人称代名詞は存在しません。
日本語において話し手が一人称を使わずに話を進めるのは珍しいことではないのですが、この曲に関しては一人称代名詞がないことによって主人公の存在感が希薄になっているように思えるのです。
歌詞には
他人事のように揺れてて
という箇所があります。
思えばこの曲全体においても、歌詞がどこか他人事っぽいんですよね。客観的すぎるというか。
荒れた夏の海の浜辺に端のほうにぽつんと佇む一人の女性。いや、もう人もいない。浜辺の隅っこに「砂のしろ」があるだけ。そんな風景画を見ている気分です。
風景画なので景色というか自然のダイナミックなところに目が行ってしまい、その景色の中の一部にしか見えない小さな砂のしろにそこまで入り込めない。そのうえで歌詞に一人称がないので外から見ている感覚がより強まります。結果
夏 > 主人公(砂のしろ)
のようになっているのではないか。そう考えるようになりました。
最後に、の前に
『砂のしろ』は夏の海を描いた風景画である。
ということで今回は終わりにしようかと思ったのですが…。
ひとつ書いておきたいことがあります。それは…
迫りくる「夏」の正体とは?
迫力のある夏。この夏とは何なのか。灼熱の風、波、雷鳴は先に挙げた通りですが「夏」はどうなのでしょうか。
私が考えた「夏」の正体は…
ラムちゃん です。
「うる星やつら」に出てくる、あのラムちゃんです。
何言ってるんだ?と思われるかもしれませんがよく考えてみてください。
灼熱の嫉妬が巻き起こす風で宙を舞い、サーフグリーンの髪を靡かせ、角を立てて雷鳴を轟かす。身にまとう衣装なんて夏の海以外で披露しちゃいけないレベルのものです。
こんなにしっくりくる人物(オニですが…)他にいませんよ。
………。
冗談です。冗談ではありますがあながち的外れでもなく『砂のしろ』における「夏」は砂のしろを壊しにかかる存在です。
なので曲にでてくる「あなた」の隠していたパートナー=「夏」という解釈は成り立つと思います。
結論。
『砂のしろ』はラムちゃん、または夏美さん(仮名)が大暴れする曲である。
ということで今回はこの辺で失礼いたします。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?