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写真展 宮本常一が歩いた上島町

ぼくも参画する特定非営利活動法人(NPO法人)かみじま町空き家よくし隊の主催によって11月7日より生名島の立石港務所1階ロビーにて、「写真展 民俗学者 宮本常一が歩いた上島町」を開催します。会期は同月18日まで。公益財団法人日本離島センターからの助成によるものです。周防大島文化交流センターから写真データのご提供を受け、解説を愛媛大学社会共創学部の渡邉敬逸先生にお願いさせていただきました。

ぼくは学生時代に社会人類学を専攻していたのですが、その隣接学問領域に民俗学がありました。そして、日本国内の地域社会を見ていくうえでぼくは、社会学よりも民俗学の先行研究をよく参照していました。宮本は、まずとにかく現地をよく歩いたこと、そして個人からの聞き取りを再構成したライフヒストリーの手法をその発表テキストで多用していたこと、さらには政治に働きかけ、まるで「アクティビスト」としても活躍しているようなところが、ぼくが彼を好きな理由でした。

瀬戸内海の芸予諸島のひとつに移住することになって「周防大島出身の宮本はここも訪れたに違いない。彼はここで何を見たのだろう?」と思っていました。そして、いつか周防大島の文化交流センター(宮本常一記念館)を訪れて宮本が残した写真データを調べ、その一部を借り受けて写真展を開催したいと考えていました。地域おこし協力隊(島おこし協力隊)の任期中に開催できれば、と願っていましたが、ゲストハウスの開業準備や本格化したNPOでの活動によってそのための時間を確保することができず、このプロジェクトは持ち越しとなっていました。今年度の令和6年度は、ゲストハウス営業の2期目であり1期目よりルーティンワークが増えること、そしてNPOでは活動をペースダウンする方針としたことが、今期にこの写真展を実現できた理由です。

宮本は1957年8月に岩城島と弓削島を訪ねています。1942年にも訪問していますが、写真データが残っているのは1957年の訪問です。8月28日に大三島、生口島、伯方島を訪れてから、おそらくは夕方遅くになってから岩城島に到着。この日は江戸時代に参勤交代の際の本陣となっていた三浦邸を見て同島で投宿しています。翌朝、弓削島に移動し、弓削島訪問の目的としていた弓削神社を訪れています。分刻みと言っていいスケジュールだったと想像できる宮本は、限られた時間で限られた場所にしか足跡を残していませんが、その中で撮られた、決して数は多くない写真から、彼の関心がどこにあったのかを読み取ることができる、とぼくは思っています。

宮本は1977年5月に魚島を訪れました。管見にして、なのですが、ぼくは魚島について書かれた宮本の叙述に出会えていませんし、魚島を撮影した彼の写真を見たのも初めてでした。彼は朝の早い時間に魚島に到着し、午前中に亀居八幡神社まで歩いていて、午後は島民からのヒアリングを行っています。夜は、役場で村長をはじめとする職員と離島の課題について協議していました。

今回の写真展を、①1957年8月の訪問時に弓削島で撮影された写真、②1977年5月の訪問時に魚島で撮影された写真、③1957年8月の訪問時に岩城島と因島(現・広島県尾道市)で撮影された写真の3つのパートに分けて構成しました。
生名島・立石港での会期終了後の11月21日から同月25日まで、魚島で撮影された写真のみの展示とはなりますが、魚島地域交流施設地域交流ホールで巡回展示を行います。
もしご都合が合いましたら、どうぞ会場へお立ち寄りください。

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