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ちょいちょい書くかもしれない日記(生きる)

東京の定宿で1泊し、朝早く起きて帰途に就いた。
猫たちは1泊の留守には慣れているが、新入り猫だけはそうではない。
心配なので少しでも早く帰りたかった。
東京だけかと思ったら、大阪も地元も寒くて、山の上の我が家はそれより4度くらいは確実に冷えるので、なお心配だった。
まあ、寒ければくっつけばいいのだし、仕事部屋も半分だけ床暖房をつけておいたから、先住猫たちには何の問題もない。
ただ、新入りは隔離部屋なので、ペット用のホットカーペットしかなく、風邪を引いていないだろうか……とソワソワしながら部屋を覗いたが、ご機嫌で温かな寝床に潜り込んでいた。
つい先日までお外生活をしていたのだ。それに比べれば何てことない、ということなのだろう。
とにかく、猫の食事の世話と、何をどうしたらこんなに散らかせるのかと嘆きながらの掃除機と拭き掃除、そしてご機嫌うかがい、さらに綺麗にしたと思ったらたちまち使われるトイレの清掃などに軽く1時間半以上かかった。

さすがに疲れ果てて布団に潜り込み、隣にやってきた長男猫を撫でながら、ふと谷川俊太郎さんのことを考えた。
私は、教科書に掲載された彼の「生きる」という詩が、ずっと大の苦手だった。
嫌いとは違う。
ただただ、苦手だった。
他の詩はそんなことはないし、PEANUTSの訳などは幼い頃から大好きなので、何かそんなに……というと、出会い方が悪かった。
国語の授業が苦手の原因なのだ。
指導要項に書かれているのだろうから仕方がないのだが、まず音読がたまらなく嫌だった。
なんでわざわざ、みんなで声を揃えて、あんなに元気よく読み上げねばならんのか。
自分のペースで、いい感じに心に広がるように読ませてはくれんか。
そもそもまずは、黙って文字を追わせてくれ。
漢字、カタカナ、平仮名。作者が選んだ文字もまた、作品のうちだと私は思う。
その細やかな選択が作る文字の旋律を、十分に味わった上での音読だろう、とも思う。
さらに言うと、その詩が「誰にとっても素晴らしい、そして学びが多い」ことを前提にプレゼンされること、さらに詩から感じたことを言語化(しかもポジティブであることが何となく必須の空気で)させられることが本当に嫌だった。
昔は上手くそのあたりが説明できなかったが、今ならわかる。
心の中に生まれた、自分だけの原石だった想いが、言葉にすることで、自分自身と他人によって砕かれ、雑に磨かれ、何だかつまらない、質の悪い宝石のかけらたちにされてしまうのが、とてつもなく不愉快だったのだ。
気持ちを適切に言語化するトレーニング自体は必要だと思うが、それを詩の解釈でやるのはどうなんだ。
今でも、詩はひとりで読み、ひとりで感じたい。
そして感じたことは、誰とも分かち合わずにしまっておきたい。
他人の解釈にも興味はない。
人生が変わるほど心に滲み通った作品については、絵でも小説でも映画でも、何でもそうだ。
「とても好きです」以上のことは言わない。言えない。
作品に対する想いは、言葉にしないで、誰にも、自分自身にも触れさせず、原石のままで心に抱いていたいと思っている。
いつかふと、「ああ、あれ、今なら磨けるな。磨きたいな」と思う瞬間まで。

夕飯のことは完全に忘れていたのだが、冷凍庫にあれこれとあるので、年末に向けてそれらを消費するフェーズに入った気がする。
何かわからないがとにかく解凍してみるか……とジップロックに水をかけてみたら、どうやら味噌漬けの魚であるらしく。
里芋を炊いて、魚を焼いて。
ごはんは塩むすびにしてみようかな。
青みがないにも程があるので、葉もの野菜を明日、用事で出掛けたときに買ってこよう。
ほうれんそうとか、青梗菜とか、ニラとか、まあそういうやつを。

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椹野道流
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