ちょいちょい書くかもしれない日記(睡眠)
深夜、一度は必ず5匹いる猫の誰かに起こされるので、朝までぶっちぎりで眠ることはなくなった。
というか、この家に猫を迎えて以来、自然に目が覚めるまで眠るということができずにいる。
概ね、起きるのも寝るのも猫の都合に合わせているからだ。
実家で暮らしていたときにも猫はいたが、共に暮らしていた猫は、朝、私を起こすより、出勤する父に合わせて早起きする母のもとへ行くほうがずっと楽だとわかっていた。
賢い猫だったのだ。
母は、このときとばかりに猫と語りながら、私の部屋の向かいの洗面所でたっぷり時間をかけてブラッシングをしたり、くみたての水を飲ませたりしていた。
その声や、猫トイレをざくざく掘る音をうつらうつらしながら何とはなしに聞いていた朝を、ふと懐かしく思いだした。
今日も、午前4時に末っ子猫に、午前7時に長男猫に起こされた。
長男猫は、私をそのあたりの時刻に起こしてやらねばならないと思い込んでいるようだ。責任感が強い。
4時には早すぎる朝ごはんを供し、7時には猫トイレを綺麗にしてから掃除機をかけ、地域猫たちの世話をした。
二度寝するには眠気が遠くにいたので、寝転がって午後からの講義の準備をした。
少しだけ、亡き恩師の同人誌も読んだ。いや、自費出版本と呼んだほうがいいか。
存命中に貰った本はどれもまったく面白くなかったのに、恩師の死後、興味本位で古書店から買った海外赴任中の日記をベースにした随筆が、やけに面白い。今さらなんなんだ。
なんでこれを生きているうちにくれなかったのかな。
私、絶賛したと思うのに。
「めちゃくちゃ面白いです!」って言ったときの先生の顔、見たかったのに。
きっとむすっとした顔で照れたんだろうな。
恩師の、生活史や医学史についての造詣の深さがチラチラと垣間見えて、ああ、私はもっとこの人の教えを受けたかったなと思った。
だいたいそう思ったときには、相手はもういないのだ。
いなくなってから、遺された本で、とてもせっかちだった先生の足跡をゆっくり辿る。
今日は学校で半日講義だった。
帰ったらもう夜なので、簡単な夕食を作り、「家事ヤロウ!!!」で土井善晴先生がお料理をなさるのを見ながら食べた。
母も、炊きたてのご飯をよそうとき、土井先生と同じ、外周ぐるりを「ここがいちばん美味しいのよ。召し上がれ」と毎度言いながら私のお茶碗に入れてくれたなと思い出して、何だかじわっと来てしまった。
親の愛情は時間差で伝わるなあ。
月は、仕事帰りの車の中と、自宅の二階の窓から見た。
月見団子は、団子なので餅と違うソリッドな食感で、食べるたびに小さく驚く。
私は餅のほうが好きみたいだ。