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ちょいちょい書くかもしれない日記(洋服箪笥)

私の家には、実家から母が勝手に手配して運び込んだ和箪笥と洋服箪笥がある。
和箪笥は、百貨店の呉服売り場の方の知識と抜群のセンスをお借りして、私に着られそうな着物と帯をセットにし、必要なだけを手元に残して、あとは手放した。
それでも、二棹ある。
洋服箪笥は、桐のものと、あとは父方の祖父母の家から来た、何の変哲もない、ただ古臭いものがひとつずつ。
桐のほうはどこかで雨漏りの直撃を喰らったようで、かなり傷みが激しいので、実家じまいをするときに一緒に引き取ってもらった。
母が嫁入り道具に持ってきたという鏡台とともに。
こちらは正直躊躇ったが、情緒をスイッチオフした。
とてもいいものなのはわかっているが、この家を建てて15年、一度も使わなかったものは、さすがに手放すのがよかろう。それも、引き取ってくれる業者が目の前にいるタイミングならば。
古臭い箪笥のほうはそのまま残し、使うことにした。
家具としての価値はまったくないとわかっていたが、父方の祖父母のよすがになるものが手元にそれしかなかったことと、色合いが寝室の壁紙や他の家具とよくマッチしていたというのが残留の理由だ。
小さな引き出しがとても多い洋服箪笥なので、肌着やちょっとしたアクセサリーを入れておくことにした。
中身もこの機会にと選別したものの……。
つくづく、父がまだ死んでおらず、母の病状が定まらぬうち、そして自分が病中だったうちから実家じまいを始めたのは大正解だったと思った。
「もっと体調がよくなってからでも」「もっと落ち着いてやったほうが」などと周囲からはさんざん言われたが、弟も私も耳を貸さなかった。
価値のあるものをうっかり売ってしまったかもしれない。
あとで愛着があったなあ、置いておけばよかったなあ、と思ったものも、正直ある。
満点の実家じまいにはほど遠いのだろう。
でも、もし時間をおいて、冷静にあれこれ考え始めていたら、大半のものの処分は不可能だったと思う。
実家にあるほとんどのものに、家族の誰かの記憶、誰かの想いがこもっている。
客観的に見ればすこぶるしょーもないものにさえ、亡き犬や猫の爪痕が残されていたりする。
見て、心を動かされてしまったら、手放せなくなるに決まっている。
もう、強迫観念じみた「片付けなくちゃ。大事な書類を探さなくちゃ」のパワーに乗って、プロの力も存分に借りて、家の中が空っぽになるまで動きを止めなかった自分を、今はちょっとだけ褒めてやりたい。

何しろ、アレだ。
洋服箪笥の中身を見直し、詰め替えようとしたとき。
その箪笥を我が家に持ち込んだとき、母が詰めてくれた靴下やハンカチを、今の私はどうしても処分できないのだ。
特にハンカチなんて、アイロン掛けが大嫌いな私は、もうほとんど使わないのに。
ハンドタオルで十分さ、なんて思っているのに。
一枚か二枚、冠婚葬祭用のものがあれば、あとは寄付に出しても……なんて頭では思うけれど、当時、まだ「おかあさん」だった母が、綺麗に、本当に丁寧にアイロンを掛けて畳んでくれたハンカチを見ると、それだけでハチャメチャに泣いてしまう。
どういう感情で泣いているのかわからないまま、毎度大泣きして、そのまま引き出しを戻してしまう。
無理。捨てらんない。使うことすらできない。
奴らは、私が死ぬまであそこにいるのだ。
箪笥の引き出しレベルならば許されたい。
その引き出しを開ければ、あの日の母の手の温もりがある。そう思うだけで、前に進む力が湧いてくる。ちょっとだけ。

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椹野道流
こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。