ちょいちょい書くかもしれない日記(バスケットシューズ)
やむを得ず外出する日々が続いたせいで、猫たちがやや不満を溜めていたらしい。
靴の上に寝るまでは別によかったが、ハイカットのバスケットシューズの中に嘔吐されたのは、さすがに参った。
人間側のやむを得ない事情など、猫の知ったことか。
まったくもってそのとおりなのだが、実力行使もそこまで行くと深刻な実害が発生する。
深夜、泣く泣くシンクでバスケットシューズを洗ったが、どうにもにおいが取れそうになかったので、もういいや、とネットに放り込み、洗濯機でごうごう回しながら寝てしまった。
朝になったらいい感じに綺麗に乾いていたので、この手の靴は、やはり気軽でいいなと思った次第である。
私は膝に古傷を抱えていて、そう長くは歩けないし、コンバースのバスケットシューズの簡素な靴底も厳しい。
そこで、医療従事者の力強い友、ビルケンシュトックのインソールをわざわざ入れて履いている。
しかも私の右足のインソールは、膝負傷時のリハビリでほぼ毎日お世話になっていた理学療法士氏が、私の足に合わせて微調整してくれた大切なものだ。
インソールも改めて取りだしてみると少し傷んでいたが、まだいける。まだいこう……と、洗いながら呟いた。
あのリハビリの日々、母は嫌な顔ひとつせず、当たり前でしょと言って、ほぼ毎日病院に送り迎えしてくれた。
私がリハビリを受けている間、母は病院のロビーで静かに本を読んでいた。
私が戻ってくると、「おつかれさま」と明るく声をかけてくれたのを覚えている。
それを言うべきは私のほうだったのに。
合流したあとで会計をすると「出してあげる!」「いいって!」と揉めることになるので、いつも忍者のように母の前を通り過ぎ、会計を済ませてから声をかけていた。
帰りは、いつもふたりで寄り道ランチをした。
どんな話をしたかちっとも思い出せないくらい、他愛ないお喋りに明け暮れたのだと思う。
車の中で、当時高校生だった池江璃花子さんの活躍をラジオで聞いたことが、やけに鮮明に記憶に残っている。
あと、ラジオによく出てこられるものだから、「タブレット純さんって何してはる人なんやろ……」と言い合ったことも。
午前いっぱい潰してもらっているんだから、ランチくらい私が奢るよと言ったら、「できるうちは、親に払わせてちょうだい」と母はきっぱりと言っていた。
できるうちは、という言葉の意味を、今、苦く噛みしめている。
さっき、関西電気保安協会(当然、文字を打ちながら歌っている)の人が来て、機器の点検を外からしますね、と声を掛けてくださった。
実家のほうへも行かれますよね、あっちもう両親がいなくて空き家なので、何かあったら私に言ってくださいとお願いしたら、「ああ」と溜め息のような声を出してしばし沈黙し、それから思いきったようにその方は問いかけてきた。
「あの、亡くならはったんですか?」
いえ、施設に入りましたもので、と私は簡潔に答える。
するとその方は、ちょっと早口にこう言った。
「あのね、僕ね、何年か前にあちらにお邪魔して、奥さんにジュースとお菓子をもらって、暑いから気をつけてねって優しくしてもらって、田舎の親にもっぺん会えたみたいな気持ちになってねえ。そうですか、もういてはらへんのですか」
お元気でって伝えてくださいねえ、と言いながら、その人の目がみるみる潤んでいくのを見て、私もうっかり一緒に泣いてしまった。
母は、そういう人なのだ。
父が死んだ後、色んな人に、母のことを「お母さんみたいに思っていた」と言われた。
誰に対しても、慈愛の人だった。
厳しいことを言うときも、いつも根底には愛情があった。
たとえそれが、実子にとっては重すぎることが多々あったとしても。
まだ母は生きているのに、あの頃の母のことを、もういない人を懐かしむように思い出す。
それは、正直、とても、つらい。