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ちょいちょい書くかもしれない日記(仏壇代わり)

父の仏壇は弟の家にある。
我が家には和室がなく、弟宅のかわいいサイズの和室が仏間にピッタリなのだ。
で、何か父に供えたいなと思うとき、何もないとちょっと落ち着かないので、せめて父の写真でも飾っておくか、何なら私とツーショのやつでも飾っておくか、と思った。
が、まあ見つからない。
よく考えてみると、私は10歳のとき、突然の引っ越しをきっかけにとんでもなく複雑に父との関係性をこじらせ、ついに最後までそれを修復することがなかった。
父と笑顔で写真におさまるなど、それ以降はほぼ考えたこともなかったのだ。
引っ越し以前の写真を探すしかないか……と実家から数冊だけ持ち帰った古いアルバムを見ていたら、幼児期の私はかわいいなあ。
なんかこう、愛されるのが当然みたいな顔をしていて、実にかわいい。
うちの末っ子猫そっくりだ。
それが引っ越した先の幼稚園で「折紙もあやとりも縄跳びもできない子」と叩きのめされ、眼鏡をかけるようになって「メガネザル」と幾多の人に言われ、永久歯の歯並びが悪いとけなされて、小学校に上がる頃にはもう、口を真一文字に引き結んでカメラから目を背ける子供が出来上がっていた。切ない。
未だに写真を撮られるのは苦手だ。
笑って、と言われると顔全体が痙攣を起こしそうになる。
心から楽しくないときは笑えない。変なところで不器用なのだ。
そして、写真を撮られるときは、たいてい楽しくなどない。
いつか、表情を作らず、カメラを見ないままで撮ってもらえたらいいのになあ、と思う。
今のところ、そんな必要も機会もないのだけれど。

幼児期であれば、ご機嫌で父と写っているものが何枚もあったが、何となくそれをわざわざアルバムから外して飾るのもなと、そのままにしておいた。
葬儀会社が作ってくれた遺影には謎のケミカル感があるので、父の遺影の元ネタになった家族写真をピアノの上に立てかけた。
ひとりずつ欠けていき、いつかはみんなこの世にいなくなる写真だ。悪くない。
父が死んでからのほうが、我々は上手く間合いを取ってつきあえているような気がする。
あの世ディスタンス、なかなかである。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。