ちょいちょい書くかもしれない日記(退院)
この前の病院での作戦会議で、母の精神状態も考え、なるべく早く退院して、リハビリは通院で対処を……ということになったのだが、そこからの話が本気で滅法早かった。
本日いきなり退院である。
弟はまったく来る気がない。仕事があるそうだ。私だってそうだよばーか。
もしかしたら弟は、次に母に会うのは葬式くらいの気持ちでいるのかもしれない。
父のときも、よほど強く言わないと、あれやこれや理由をつけて面会に来ようとしなかったから。
たとえ家族でも、滅多に会わないまま年月が経ってしまうと、他人より遠い存在になる。
むしろ会わない状態がデフォルトになって、面会という非日常が億劫になる。そういうものだ。楽しい用事でなければなおさら。
まあ、入院費の精算は私の仕事なので、どのみち私は行かねばならない。それがわかっているので、俺は行かなくて大丈夫と高を括ってもいるんだと思う。
母が、父に義両親の介護を押しつけられて苦労していたのを見ているせいか、義妹を代理で寄越すようなことをしないのが、せめてもの幸いだ。
弟が来ないなら、義妹も来なくていい。心からそう思っている。
昨年、両親と私が同時に新型コロナにやられたあのとき、義妹は大車輪で一生分助けてくれた。もう十分だ。
施設の人たちと示し合わせた時間より早く病院に行き、まずは会計を済ませた。
施設の方と合流して、母を施設へ連れ帰る。
ほぼ「斜め筋向かい」くらいの立地なのだが、車いすごと母を運べる自動車で来てくれていた。ありがたい。
母は休みたいとお腹が空いたを同時に繰り出しており、もうすぐ昼食なので横にならないほうがいいと、ケアマネさんは自室ではなく、スタッフ詰め所前に母を連れていった。
そこには、カウンターにくっつけて、小さな机が据えてあった。
どうやらそれが、この施設における母の「職場」であるらしい。
そういえば毎日、母は出勤しているつもりでいるのだった。
以前、ミクロな会社を経営していたときの生活が、身体に刻みこまれているのだろう。
認知症になってもワーカホリック。
「なんだかねえ、いつもここにいる人がいないと寂しかったのよ」と皆さん言ってくださる。もはや地蔵感すら漂う。
母はここで日中、色んなことを書き留めたり、塗り絵をしたり、スタッフさんとお喋りをしたり、色々と仕事をしている模様。
そうやって覚醒させておくことで、夜間の徘徊を少しでも防ごうとしてくださったのだろう。
「出来る限り、その人らしい自然な暮らしを」という、ケアマネさんの言葉が甦る。ありがたい。
ふと見ると、私が置いていった木村セツさんの切り絵の作品集が机の上にあった。
気に入ってんねんな、とふと手に取ってギョッとした。
カバーを外した本の表紙に、びっしりと隙間なく、なんなら幾重にも重ねて文字が書かれているのである。
ちょっとしたホラー映画の小道具のようだ。
乱れてはいるが、確かに母の字である。
よくよく見ると……その多くは、カタカナで書かれた私のペンネームだった。
フシノミチル、が正しかったりちょいと間違っていたり、○で囲ってあったり、大きかったり小さかったり。
漢字は覚えていられないのだろう。ややこしいからね! わかる!
でも、カタカナの私の名前が、中の色んなページにも書き付けてあった。
セツさんの作品には書き込んでいないところ、さすが良識派である。
でも、やめてほしい、こういうの。
泣いちゃうでしょ。
母は入院前、「娘のペンネームは難しいから、毎日書かないと忘れてしまう」と言っていたらしい。
マジで泣いちゃうでしょもうー。
転倒したことも手術を受けたことも忘れてしまっている、そして物語を耳から入れることももはやちょっと難しい母だけれど、若い頃、小説家になりたかっただけあって、娘が小説家をやっていることは覚えていて、自慢に思ってくれているらしい。
もうね。もう、それだけで十分です。
私はそれで、十二分に報われました。
ありがとね、お母さん。
今日は、職員さんたちと書類のやりとりや打ち合わせがあって、いつもより長く母と一緒にいた。
母の手は相変わらずほっかほかだった。いつもそうだった。今もそうなのか、と思った。
私の手があまりに冷たいので(これもいつもそうだ)、一緒にいる間、母はずっと強い力で私の手を握ってくれていた。
意味のある会話はほぼ成立しないのだが、他愛ない話をいくつかした。
「猫はあんたの顔を見上げて肩が凝るんだから、揉んでやらないとダメよ」と、母は祖母と同じことを言った。
ミトコンドリアが言わせているのかもしれない。
母のほかほかが移ったのか、今、珍しくあったかい手で、私は末の猫を抱っこしている。
肩は揉まなくていいそうだ。まだ若いもんね。