ちょいちょい書くかもしれない日記(骨)
有楽町線と丸ノ内線が脳内でごっちゃになる女。それが私。
今回は丸ノ内線のほうだった。
一度間違えて有楽町線のホームまで行ったが、電車に乗る前に気づいて駅員さんに出してもらった。
私にしては上出来である。
東京大学総合研究博物館が、今日の目的地のひとつ。最寄り駅は、本郷三丁目だ。
とてつもなく賢い人たちの詰まっている場所か、などと思いつつ、クラシックで重厚な煉瓦造りの校舎の前を通り抜け、敷地の端っこにある博物館にたどり着く。
受付にはお爺ちゃんぽい職員さんがいて、パンフレットをくれた。
特別展示以外にもいいものがあるから、ゆっくり見るといい、と言われた。
小さな博物館なので、受付のすぐ前から展示が始まる。
大きなガラスケースの中に、素人目にはただただ雑多なアイテムたちが陳列されている。
変な種、なんかのホルマリン漬け、なんかの剥製、石器、器……簡単な解説プリントを貰ったけれど、敢えて読まずにただ眺める。
歴代の研究者が、それぞれの熱を抱いて世界中に足を運び、集め、大事に持ち帰ったものたち。
大英博物館に満ちていた「ほしいものは根こそぎぶん捕り感」ではなく、「そっと摘み取り、あるいは拾ってきました」という慎ましさがあった。
むしろ好もしい。
そう言いつつも、大英博物館だって大好きなのだけれど。
遮光式の、眼鏡の大先輩みたいな土偶も初めて見た。
きよし師匠みたいな、目力が物凄い仲間がおったんやろな、と素直に感じた。
本来の目的は、人骨の特別展示だ。
何の気なしにスマホで音声ガイドを聴き始めたら、ちょっと困惑するほど面白かった。
ただ見るだけなら10分で終わりそうなささやかな展示に、凄まじい情報量が詰め込まれていた。
研究者の興奮と喜びも染み着いていた。
サンプルがない、空っぽのケースすら面白かった。いや、あれが個人的にはいちばん興味深かった。
空白の時代。その理由。
帰ってから自分でも学びたくなる。
満足などさせないという意味でも、とてもいい展示だと思う。
地味に贅沢な時間を過ごした。
募金箱がなかったので、帰宅してからささやかに寄付を送金した。
先人たちが集め、保存し続けた資料が、今の研究を支え、花開かせる。
その流れを止めないために少しでも役に立てるなら、働く意味もあろうというものだ、と思う。
行くといいよ、「骨が語る人の生と死」展。
音声ガイドの「縄文時代には、人の傍らに犬がよく葬られてるんです。弥生時代になると、犬を食べちゃうようになるんで、ないんですけど」に、私はちょっと笑って、そのあと、なぜかじわっと涙ぐんだ。
食べちゃったかー。そうかー。