邪推も肉体も、一瞬でぐしゃりと潰れる
「降りろ!」
日頃穏やかなあしながおじさんからは想像できないような、強い口調だった。
私は何が起こったのかもわからないまま、ひりひりと痛む手で自身の右わき腹のあたりをまさぐった。
*****
11月初旬にあしながおじさんと別れてから、何の音沙汰もなく、1ヶ月が経とうとしていた。
月に1、2回会うための約束以外、日常的に連絡を取り合うことはしない私たちの距離は瞬く間に遠くなった。
30日のうちの29日が。
31日のうちの30日が見えない相手は、もう、知らないひとだ。
おはよう、おやすみ。
私たちはそれぞれの生活の中で、1年に353回、それぞれ別の相手と言葉を交わし続ける。
ログインを「女漁り」と非難したためか、彼は私たちが知り合った出会い系サイトにアクセスの痕跡を残さなくなった。
こうなったら、広い世界であしながおじさんを探し出す手がかりはひとつもない。
私は自ら、あしながおじさんの息吹を感じる術を失くしたのだった。
あしながおじさんが私に文章を書きなさいと言うから、書いていた。
もし彼の気が変わってもう書かなくていいと言われたら、私は身を削ってまで何かを書こうとは思わないだろう。
……じゃあもし、黙って彼が消えたら?
『ミチル』として何かを発する理由がなくなった私は徐々に失速していき、12月に入ると片言のツイートすらもできなくなっていた。
いずれ来る別れだと覚悟していたけれど、いつでもさよならがあるわけじゃない。
そうなったら私に語るべきことは何もなかった。
『ミチル』は消えるのだ。
私が急に黙り込んだことに気付いた何名かの近しいひとからは、メッセージが届いていた。
ーー元気?大丈夫?ちゃんと生きてる?ーー
けれど私はそんな風に差し伸べられた手を、うまく握り返すことができなかった。
私の『ミチル』である部分は、あしながおじさんにしか救われない。
誰でもいいから話を聞いて、助けてほしい、なんて虫のいいことが言えるものか。
ーー元気じゃない。だいじょうぶ。時間が過ぎるまでただうずくまっているーー
やさしいひとたちに愛想のない返信をすると、ふたたび私は布団の奥深くで身体を丸めた。
ひたすらに昼夜眠り続ける日々が続いた。
どこかで見てくれていたらと、布団の中から右手を出して、闇雲に引っ掻いたようなnoteを2本書いた。
私から次の約束をすることはない。
それは、あしながおじさんの気まぐれをすべて受け入れますという暗黙の了解だ。
遂にこのときが来たんだと、3週目を半分過ぎたあたりから爪噛みがやめられなくなった。
最後に会った、自宅に近いという理由だけで選んだダサいラブホテルが思い出に残るのは嫌だなあ。
けれどじゃあ、どこだったら思い出にふさわしいかと考え出したら、やっぱり最後なんていつもそんなものなんだろう。
彼の長く細い指が、私のマキシ丈ワンピースのボタンを上から下まで滑らかに外したあの夜のこと。
思えばおかしなことがいくつもあった。
あしながおじさんがいよいよ正気に戻ったとしたら、私が半年をかけて書いたあの小説はもう読んではもらえないのだろうか。
そんな無責任なことがあるか、あなたが書けと言ったから書いたのだ。
あなたがいなくなったら、私はもう書かないなんて、脅しにもならない稚拙なペンを振り回していたバチが当たった。
どうせ外されるハシゴなら、高く登らないほうが怪我も少ない。
それは私でも思いつく、幼稚な処世術だったはずなのに。
「忙しいの ですか」
刺すように寒い日の朝、ごく自然に指が動いていた。
すべての爪を食いちぎったあとの指先はささくれ、血が滲み、悲しいほどにみすぼらしい。
何度も何度も見返しながら数時間かけて既読がついたとき、私はもうそれだけで満足だなあと思った。
どこか遠くで元気でいてくれたら、それでいいと。
それなのに私は数日後、懲りもせずあしながおじさんの車に乗ったのだ。
*****
「遅れて……すみません」
不貞腐れたように口ごもりながら、助手席に乗り込む。
体調どう?ご飯食べれる?あしながおじさんは私に聞き取りながら車を走らせた。
「大掃除も兼ねて本をだいぶ処分していたから」
ここ1ヶ月の音信不通は要約するとそういうことだった。
いつもより格段に口数の少ない私を気遣ったのか、この日のあしながおじさんは妙によく喋った。
先月から彼は、ナビ代わりに使っているスマホを正面のホルダーに置かなくなっていた。
おそらく誰かから連絡が入るところを、私に見られたくないのだ。
連絡なしが4週間に到達する頃、疑念は確信に変わった。
もう私とは会う気がないのだったら引き止めてはならないのに、こんな風に物欲しげに『元気ですか』なんてしみったれた連絡を入れ、濡れ落ち葉のように張り付いて。
情けない女だな、確かに聞いたのに。
行為中のベッド脇。
鳴り響く着信音を、この耳で。
「なんか今日……助手席、前のほうに出てない?」
いつもと違う感覚を思わず口に出すと、彼は「ああ、こないだ後ろに荷物を積んだから。座席、下げていいよ」なんて平然と言ってのける。
ところが腰をかけたままレバーを引き、何度か後ろに体重をかけてもシートはまったく動かなかった。
……私よりずっと小柄な女の呪いじゃん。
交差点をふたつほど過ぎたころ、私はその呪いに抗うのをやめた。
このひとに嘘をつかせているのは私なのかと思ったらやりきれなくて、窓の外を眺めると深く息を吐いた。
私はずっとそっちを見ないようにしてるから、だからあなたは嘘なんてつかなくていいんだよ。
そんなことを考えた瞬間だった。
突然、目の前が真っ白になり、後背部からの強い衝撃。
悲鳴を上げる余裕はなかった。
私より先に状況を把握したのだろう、あしながおじさんは言った。
「降りろ!」
その声で目の前の白い景色が、作動したエアバッグであることに気付く。
私はおぼつかない指でシートベルトの金具をガチャガチャと鳴らした。
どこかにぶつけたのだろうか、手の甲がひりひりと痛む。
なんとかしてベルトのロックを解除し、そっと助手席のドアを開けたが、なかなか両足で道路を捉えることができずにひどく焦れた。
隣の車線から浴びる好奇の目に、やっと『事故に遭ったこと』を理解した。
ふらふらと運転席の方に歩み出ると、あしながおじさんの小ぶりで可愛い外車が前から後ろからぐしゃりと潰されて、漏れ出たガソリンがアスファルトに一筋のシミを作っている。
真冬の18時は充分に暗い。
ヘッドライトに照らされたあしながおじさんの大きな背中の向こうに、後続車の運転手であるおじいさんが立っていた。
二人は表情こそ見えないけれど、その微妙な間合いからは戸惑いと混乱が痛いほど伝わってくる。
……あしながおじさんの怒号を聞いてしまうかも。
事故に遭った事実よりもこれから目の前で起こるかもしれない諍いが恐ろしくなり、肩が縮まる。
直視しないよう伏せた目線の先に、あしながおじさんの眼鏡が落ちていた。
先頭車両のおばさんがかけた110番通報を盗み聞くことで、私は現在地と事故状況を把握した。
自動車3台の玉突き事故、私の家からそう遠くない橋の手前の交差点、高齢ドライバー。
あしながおじさんの車、潰れてしまった。
そう心の中で呟くと、彼だけが知る今日の予定もすべて潰れてしまったことを改めて思う。
皆、言葉少なに歩道に移動すると、家族や保険会社に連絡をとり始める。
あしながおじさんも例外ではなく、保険会社に電話をすると名義人の名前を口頭で伝え始めたので、私は慌てて彼の声が聞こえない場所まで退避した。
30分ほどで小さなパトカーが1台、男性警官と女性警官を乗せて到着する。
女性警官は慣れた様子で交通整理を始め、男性警官は事故車両の前から一人ひとりに「ケガはありませんか?」と呼びかけ、皆口々に「ないです」「大丈夫です」と答えた。
「見て、ベンツ、なんともない」
先頭の白い車を指して、あしながおじさんが言った。
あれベンツなんだ、と聞き返すと、見上げた彼は少し微笑んでいるように見えたので胸を撫で下ろす。
警察の事情聴取は私を透明人間みたいにスルーしたまま進められている。
あしながおじさんは必要に応じて車の近くまで呼び出されたり、また戻ったりを繰り返し、気忙しそうだ。
保険会社の電話が折り返し待ちとなったタイミングで、あしながおじさんは私の右手をきゅうっと握った。
ずっといないように扱われ、バラバラになりそうな私の自意識を、ちょうどいい力加減で寄せ集めてくれる。
「君、ここにいてもどうにもならないから」
そうあしながおじさんが私に言い、私は家に帰されるのだと覚悟を決めた。
目の前では到着したばかりの救急隊員が、道路に漏れ出たガソリンの拭き取りを人力で進めている。
ところがあしながおじさんの次の言葉は、私の想像していたものとは違っていた。
「駅前まで歩いてカフェかどこかで座って待ってなさい」
私、まだいてもいいの?
私への聴取も必要になる可能性を考えての指示であることくらいわかっていた。
だけど、邪魔にされなかった、それだけで充分だった。
何も出来ないけれど、離れるなんて嫌だ。
こわいとか、さむいとか、そんなこと絶対言ったりしないからここにいさせて。
強い意思のもと、私は返事をしなかった。
あしながおじさんも、唇を真一文字に結んだ私のことを、それ以上追い立てることはなかった。
現場検証も1時間を過ぎるとさすがに足元から冷えが上がってくる。
既に私の膝と腰の痛みは、衝突と冷え、どちらに起因するものなのか判断がつかなくなっていた。
それでも5人の関係者のうち、上着を着ているのは私だけで、いくらかマシのはずだ。
私は時折、あしながおじさんのセーターの裾を掴んでは、さむくない?いたくない?と繰り返した。
「君、ちょっとおつかい頼まれてくれないか?温かい飲み物を」
やっと私にも役に立てることがあったと、忠誠を誓うような気持ちで深く頷く。
「……全員に?」
私の視線はあしながおじさんの横をすり抜けて、加害者のおじいさんとその奥さんを見つめた。
「こっちだけで、いいんじゃないか?」
被害者サイドをちらりと見ると、うーんと唸りながら彼が言う。
わかっている。
これは老夫婦に過剰に気を遣わせたり、余計な頭を下げさせないための彼なりの配慮なのだ。
Googleマップを頼りに知らない街のコンビニへ辿り着くと、人数分のお茶とカイロをつかみ、会計を済ませた。
店内ですべてのカイロを開封してレジ袋に投げ入れる。
少しでも温めてから彼らに届けることができたら。
何の足しにもならないけれど、私は小走りで事故現場に舞い戻った。
ぱたぱたとあしながおじさんに駆け寄り、温かいお茶と、わずかに発熱し始めたカイロを渡した。
続いて、ベンツのおばさんにも。
こちら側の全員に飲み物とカイロを渡しても、まだずっしりと重さの残る袋を見てあしながおじさんは目を細めながら言った。
「渡しておいで」
ん!と私はまた深く頷いた。
忠犬になりきれなくてごめんね、自己満足でごめんね。
あしながおじさんの懸念通り、おばあさんはすみませんすみませんと泣きそうになりながら頭を何度も下げる。
私は小さく縮こまったその肩を幾度もさすってはだいじょうぶよ、と言った。
さむくない?手袋あるよ?そう伝えてもおばあさんは私の差し出した手袋を受け取ってくれなかった。
「いいんですいいんです。あたしなんかはそんなに冷えてないから」
顔の前で拝むように合わせたふよふよの両手を私の手のひらで包むと、嘘でなくほんのりと温かかったので、安心した私は無理強いをせずあしながおじさんの陰に吸い込まれるように戻って行った。
カイロひとつでここまで恐縮されたら、とてもじゃないけど私のコートなんて羽織ってくれなかっただろうな。
私は全開にしておいたコートのファスナーをふたたび閉め、ブルッと震えた。
いつ脱いでも平気なように、寒さに慣らそうと開けておいたものだった。
救急隊員が撤収すると同時くらいにレッカー車が到着し、事故車両を省スペースに配置しなおしたあたりで現場検証も大詰めである空気が漂っていた。
男性警官が最終の確認で「後日人身事故に切り替えたらまた全員に集まってもらうことになります」と今後の流れを説明する。
1時間超が経ってから急に聞かされた事故処理の仕組みに、あしながおじさんが異議を申し立てる。
ずっと彼は右肩から上腕部のあたりが痛むと言って撫でていたのだ。
「さっきケガはないって言ったじゃないの!」
揚げ足をとるような言い回しにカチンときた私は、いつでも飛びかかってやろうと警官を睨みつけた。
このひとは、そういうずるいことはしないの!
ケチな利益のために、嘘なんかつくようなひとじゃないの!
私が憤慨していることなど露ほども知らず、あしながおじさんは冷静に伝える。
その落ち着き払った口調が、私の憤りを打ち消していく。
「緊急のケガ人はいないという意味なので、痛みはあります。
後日病院には絶対行きますので、人身に切り替えてください」
警官は「あと2時間はかかるよ?いいね?」と嫌味な念押しをすると、更に応援を呼んだ。
「人身事故に切り替えたので、同乗者さんの連絡先も教えてくださいね」
婦警さんはそう告げると、バインダーに挟んだ用紙にボールペンを突き立てた。
ぴったりと貼り付くようにして立っていた、あしながおじさんと私のあいだに緊張が走る。
私たちは互いに、呼び合う名前すら持たない。
「きみ」
「あなた」
なるべく速やかに互いの生活に戻っていけるように、知りすぎないことを、知られすぎないことを、私は心掛けていた。
駅前のカフェで待ってなさい。
あれはあしながおじさんからの助け舟でもあったのかと思うと立つ瀬がなかった。
「じゃああちらで聞いていただけますか」
あしながおじさんは数メートル先に停まったパトカーの陰を指し、私と女性警官を誘導した。
先ほどまで手を握り合っていたような男女だというのに、彼のあまりにスマートな導きに婦警さんは何も不思議に思うことなく移動してくれた。
住所、氏名、生年月日、勤務先。
一通りの質問の最後に、私は言葉に詰まった。
「運転手さんとのご関係は?」
あー……と頭を掻く。
知らないひとです、と言ったら面倒なことになるのはわかっている。
でも、1ヶ月以上 一言も交わさない相手なんて、知らないひとも同然だから。
今日このタイミングで聞かれるなんて、どういう皮肉なんだろう。
不審さを回避するため、私が絞り出したのは「知ってるひとです」という、いかにも胡散臭い言葉だった。
さっきはすんなりあしながおじさんの魔法にかかっていた婦警さんも、今度ばかりは怪訝な顔をする。
お手付き1回。
慎重に言葉を選びつつ「知人です」と言い換えたが、それでも彼女は首をひねった。
お手付きは何回許されるのだろう。
ごめんなさい、気が、動転していて。
私の言い訳をまっすぐ汲み取ったかのように、今度は彼女がいくつかの選択肢を出す。
「お付き合いしてる?」
私は大きく首を横に振る。
「同僚さん?」
ふたたび小さく首を振る。
この調子だと私はちぎれるまで一生首を振り続けるんじゃないか。
「お友達かな?」
……セックスフレンドって言葉があるくらいなのだから、しいて言えば、そうなのでしょうね。
私は情けないような笑顔でこくりと頷き、ようやく理想の解答に辿り着いた彼女は満面の笑みで「友人」と記した。
「運転手さん3人で連絡先の交換しといてくださいね〜!」
いつのまにか応援として到着していた若い警官が、まるで合コンみたいな軽いノリで言うものだから、なんだか笑ってしまう。
2時間半も緊張したまま立っていたら、不意に不謹慎な気持ちにもなるものだ。
あしながおじさんにB5サイズのリングノートとペンを差し出すと、彼はそのうちの1枚を剥ぎ取り、自分の連絡先を書いたメモを2組作った。
「ありがとう、助かったよ」
お礼なんて、言わないで。
何枚かめくれば、他のページにあなたへの猜疑心が隙間なく書き込まれている。
眠れない夜に布団の中で抱いていたあの青い表紙のノートが、今はあしながおじさんの手の中にあることが不思議だった。
しばらく経つとベンツのおばさんが私を手招きした。
「車、乗っていいって許可が出たから、呼び出しがあるまでみんなで乗りましょう。
彼女ちゃんが乗ればおばあちゃんも乗りやすくなるから、先に乗って?」
唯一、乗って帰れる程度の被害だったベンツの後部座席に乗り込むと、ほどなくしておばあさんがまた「すみませんすみません」と念仏のように唱えながらも、なんとか乗ってくれた。
エンジンがかかっていなくとも、外気が遮断されるだけでずっと暖かく感じる。
「ねえ彼氏さんのこと呼んでくれる?」
ベンツのおばさんが言う。
あしながおじさんとおじいさんは最初から乗り込む気などなかったのだろう、二人揃って暗い歩道に立ったままだった。
あ、と私は小さく呟き、そしてうつむく。
……おばさん、私は彼の名を呼んだことがないんです。
「おじいさんが外にいるのにあたしなんかが座っていられない」
おばあさんはわずかに認知症の兆候があるのか、どんなに説明をしても「おじいさんおじいさん」と連れ合いを呼ぶ声を止めなかった。
最初のうちは逐一返事をしていたベンツのおばさんも、さすがに疲労が溜まってきたのか徐々に無口になり、車内にはおばあさんの呼び声と重苦しい空気が流れていた。
うらやましい。
頼りにしているそのひとの名を、まっすぐに叫べるおばあさんがうらやましい。
じっとしていられないおばあさんの右ひざに左手を置いていると、私側の後部座席の窓が2度、ノックされた。
ドアの薄い隙間から「先に終わりましたのでお帰りいただいて結構ですよ」と警官が言う。
事故も突然だったけれど、収束するのも突然で、まだ現場検証中の2名には声もかけられずにその場をあとにした。
ちょうど3時間。
人身に切り替えたらあと2時間、は嫌味なんかではなく事実だった。
「なんか……ごめんね」
今日という日を指定し、直前に待ち合わせをいつもと違う場所に変更し、そして少し遅刻した私は責任の幾分かを持ち合わせているような気がして小さく謝った。
あしながおじさんは「それを言ったら俺もなあ」なんて互いに避けようのなかった不運を笑った。
*****
2時間前に立ち寄ったコンビニへの道をさらに進んだ先に、駅があった。
食べ始めれば食欲もわくだろうと、あしながおじさんは私たちの疲労感をかき乱さないくらいの落ち着いた店を選んだ。
「おうちのひとに、連絡した?」
「してないんだよね」
彼は親御さんへの報告のタイミングに頭を悩ませているようだった。
幸いにも事故現場は駅からそう遠くなく、早い時間に待ち合わせたこともあり、まだ電車で帰ることができる。
むやみに電話を入れることは不安感を煽るだけで何にもならないことは明白だった。
「やっぱり対面で報告するのが一番だろうなあ」
ああ、いいな。
このひとは自分に向けられた愛情の質量を、過不足なく理解している。
早くお母さんのもとに、このひとを帰してあげたい。
「今日の俺の計画が全部崩れたー……」
親指と人差し指で眉間を摘みながら、あしながおじさんは嘆いた。
寿司を食って、いつものホテルに泊まって、朝は先日見つけた美味しいパン屋に行くつもりだったのに、と言う。
「私、泊まりの準備してきてないけど」
するとあしながおじさんはそうなの?と驚いたような顔をした。
「だってあなたもう私に、私の書くものに興味ないじゃない」
「……そう思ってたの?」
「思ってたし、今も思ってる」
玉子焼きをつつきながら私は険しい顔をした。
こっちも食べなさい、と貝の酒蒸しを差し出され、私の好きなものとこのひとの好きなもの、もう混ぜこぜになっているな、と思う。
あなたが好きなんだな、と感じたものを次の食事で注文する。
あなたはそれを私の好きなものなんだな、とインプットする。
この距離感は危険だ、互いの生活に戻っていける境界線を片足で踏んづけている。
「あなた、こないだおかしかった」
泊まらなかったこと?と見当違いなことを言う彼に、ううん、と首を振り、スマホを前方に置かなくなったから、と種明かしする。
するとあしながおじさんは、それは君、まったく違うね、と鼻を鳴らし、
「君を待っているあいだ、ドラクエをしていたからだ」
と言った。
私は黙って目を見開いた。
10分近くの遅刻をした記憶が、あしながおじさんの主張を正当化していく。
「それに、めずらしく着信があったし、出なかったじゃない……」
「アラームじゃないか?毎晩21時に薬飲んでるから」
23時前のチェックアウトを逆算すれば、下手な勘繰りを差し込む余裕はなくなっていた。
たったふたつ、ひっくり返されただけで私はすんなりおとなしくなる。
だってこのひとは、ずっとやさしい。
気まぐれだけど、ずっとやさしい。
大切にすべきひとができたのなら、私になんて会わなくなる。
大切なひとを悲しませるようなことはしないひとだ。
ついさっきまで私が一番、憤っていたではないか。
ケチな利益のために、嘘なんかつくようなひとじゃない、と。
「助手席、前に出てて良かったかもね」
あしながおじさんが言った。
いつものように座席がたっぷり後ろに引いてあったら、衝突したとき私の身体は大きく振られ、勢いよく車内に打ち付けられていただろう。
気が小さい私の産み出した小柄な女の呪いは、私をかすり傷だけで解放してくれるホスピタリティ溢れる呪いだった。
駅の改札前でじゃあ、と別れようとした私にあしながおじさんは突然「泊まるよ」と言い出した。
いやだ、だって私は早くあなたを自宅に帰したいのに。
「今帰っても、家族はもう寝てるし、翌朝まで出来ることがない」
その代わり朝は早く帰るぞと言いながら、彼の長い足は最寄りの、あのダサいラブホテルに向かっていた。
私はあしながおじさんの気まぐれに呆れつつも、なかば諦めに近い気持ちでその後ろ姿を追っていた。
彼の長く細い指が、私のカーディガンのボタンを上から丁寧に外す。
私は彼の肩に、首に、今日一番の力でしがみついては、ケガを負っていることを思い出し、その腕を何度もゆるめた。
とっくに21時を過ぎていたから?
この夜あしながおじさんのスマホは一向に鳴る気配すらなかった。
一つのシーツに同時に潜り込むと、途端に安堵感が押し寄せる。
よかった、このひとが私みたいな訳のわからない女と一緒に命を落とすことがなくて。
よかった、このひとを無事にお母さんに返すことができて。
寝息をたてはじめたあしながおじさんは、眉間に深いシワを寄せていた。
大変だったよね、疲れたよね、こんなこわい顔して。
このひと、一度も取り乱したりしなかった。
それはとても殊勝なことだし、尊敬に値するけれど……でも本当に人っていつでも、そんなに理性的でいなければならない?
わかってる、それがあなたの美学なのだと。
私はとうとう出番のなかった自分の両腕をじっと眺めていた。
ちっとも役に立たない私でごめん。
名前のない、しみったれた女が同じベッドで頬を撫でている。
この状況はあしながおじさんにとって、なんてジャンルの怪談なんだろう。
ああ、もう、どうしよう。
ちゃんと、知っているのに。
吊り橋理論とかそういう類のやつなんでしょう、それなのに。
このダサいラブホテルが私の安息の地でもいい。
このときは本当に、そう思ったの。