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他人の気持ちを理解する必要

久しぶりの投稿です。世間では、ノーベル物理学賞を受賞された、“米国人の”眞鍋淑郎博士の話題が耳目を集めています。

受賞会見の中で、「アメリカでは、やりたいことができる…他人の気持ちを気にする必要がありません」と仰ったそうです。

本当にそうでしょうか。本当に、アメリカ人は、「気持ちを読まない」のでしょうか。

個人的な“感覚”で申し上げると、「いや、そんなことないはず」です。(筆者は、大学時代に1年ほど米国で生活していました。)

日系人と二ホン人

当時、大学の斡旋で、ホームステイをしました。筆者の周りの日本人留学生は、ニコニコしながら、リベラルな感じの中流米国人の家庭に迎えられていきます。

そんな中、筆者は待てど暮らせど、ホームステイ先のファミリーが来ません。気分としては、ペットショップで売れ残ってしまった柴犬です。

大学の職員が、私の気持ちを察したのか、「大丈夫。絶対に来るから」だとか、「このクッキー、美味しいわよ」などと声をかけてくれ、その場のどんよりとした空気が、少しだけ和みます。

すると、やってきたのは、70代のアジア系の老夫婦でした。彼は、ゆっくりとこちらに近づくと、日本語で「待たせたねえ」と言います。彼女は、英語で「はじめまして」と言います。

そうです。私の里親は、「二ホン人の旦那さんと日系人の奥さん」なのです。

地域の有名人

彼らの家に着くと、筆者は丁重にもてなされます。「よく来たなあ」だとか、「この数日間は、この家をあなたの家だと思っていいのよ」といった、心温まるコトバが続きます。

話を聞くと、彼は、筆者が留学していた大学に、日本研究者として籍を置いてきたようです。また、国際交流事業の一環として、日本庭園を地域につくってみたり、コミュニティ向けの日本語講習を行うなど、地元では有名な方のようです。

退職されてからも、コミュニティへの奉仕活動をしたり、精力的に活動されていました。

日本人(ガイコクジン)としての特別扱い

彼のカバン持ちをしていると、ひとつの気づきがありました。

それは、「アメリカ人が、彼の意を汲もうと、懸命に気を遣っている」ということです。

彼は、半世紀近く米国で生活をしていますが、英語がそこまで達者ではありません。上手いとか、下手とか、そういうことではなく、“クセ”の強いアクセント、「日本的な発想のもとで繰り出される英語」の数々に、現地の方々は、後ずさりしてしまうのです。

言うなれば、スターウォーズのヨーダ先生です。文法に倒置があろうとも、アクセントが強かろうと、「弟子が、先生の言うことに意味を見出しているがゆえに」、そんなことは、どうでもよくなるのです。

彼が放つコトバの端々(はしばし)に、細心の注意を払い、懸命に「先生は、きっとこういうことを言っているに違いない」と理解に努めるアメリカ人が、筆者の目の前に存在するのです。

決して、彼が、コミュニケーションに手を抜いているということではありません。

他人の気持ちを慮(おもんばか)ることを軽視する文化はない

社会的な生活を望む文化の中に、「他人の気持ちを理解しなくてもよい」などといった“暗黙の了解”は、ありません。

もし、「自分が好きなように生きる」ことができていると感じているのであれば、それは、「他人が、あの人は、“ああいう人”だから、そっとしておいてあげようね」と気を遣ってくれているから、かもしれません。

人間は、狭いコミュニティに閉じこもってしまうと、同質の人間に囲まれていること、自分が同調圧力を作ってしまっている可能性があることを忘れがちです。

やや辛辣な言い方ですが、「他人の気持ちを慮ることなく生きることができたら、どれだけ幸せでしょう」か。

なぜこのタイミング

「地球の温暖化」から、「地球の気候変動」へとコトバの使われ方が変わる中で、本当に、「地球は暖かくなっている」のでしょうか。一部の研究では、「地球は寒冷化に向かっている」という考え方もあるようです。

そして、なぜこのタイミングなのでしょうか。

特段、意味はないのかもしれません。表彰したい人は、山ほどいるでしょうから、その順番の調整があっても不思議ではありません。

それにしても、今更、「二酸化炭素が温暖化に影響を与える」ことを、持ち上げる必要性って、どこにあったのでしょうか。

オリンピックもそうですが、政治の駆け引きのカードのひとつとして利用されていませんか。そんなことを、筆者のアメリカの友人が言っていました。

本当に、空気を読むのが下手ですよね。

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