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毛糸のクマ

「2024年11月20日、私は45歳になりました」

 エッセイを書いていこうと思いました。
 それで私はまず、自己紹介をしようと思ったのです。
 しかし、いざしようとしても、私は紹介できるほどの何かを、持っているわけではありません。
「私は45歳になりました。
 私には、何もありません」
 それ以外、何もなくて、困ってしまいました。
 でも自己紹介ナシに、というわけにもいきません。
 それで「その何もない」ということを、お話しすることにしました。
 少しお付き合いいただければ、嬉しく思います。

✳︎

 あまり、褒められることなく育ちました。
 人の何倍も努力してやっと人並み、と言われてきました。
 サボテンを「かわいいね、やさしいね」と言いながら世話をすると、トゲが柔らかくなる、という話があるように、やることなすこと「おまえは馬鹿か」と言われて育った私は、大体その通りの人間になりました。
 ろくに社会を経験することなく、パートタイムの仕事を転々とし、図らずも、結婚はできたものの、結婚後十数年で夫は病気で他界し、ひとりになった私は、また前のようなフラフラした生活をしていました。
 昔、親からは「そんな人間にはならないように」と言われていましたが、残念ながら、そのような人間に私はなっていました。
 私には、いくら馬鹿でも、健康な身体があれば、そして欲を出さなければどのようにでもなる、と思っていたフシがありました。
 こういうところも、馬鹿と言われる由縁であるのかもしれませんが、実際、若く体力がある頃は、それでなんとかなっていたところもありました。

 しかし生き物は、生きている限り、必ず老いていきます。
 40も過ぎると、私もだんだんそれを実感するようになりました。
 持病を抱えるようになり、更年期に差し掛かった今、調子の悪いのがデフォルト、という毎日になりました。
 出来の悪い上にそういうふうですから、夫を亡くしてから実家があるのにわざわざしていた一人暮らしも、むずかしくなってきました。

「時」というのは、誰でも平等に過ぎていきます。
 こんなに経っていたんだと、思う時があります。
 日頃の忙しなさに身を置いている時には気が付かなかったそれも、いったん立ち止まった時、立ち止まらなければならなくなった時、その早さに、気付かされたりします。

 実家には父がひとりで住んでいました。
 私が何もかも上手くいかなくなって悶々としていた頃、父もまた私と同じように、ひとりで暮らすことをむずかしく感じはじめていたようでした。
 知らない間に、父の「老い」も濃くなっていました。
 久しぶりに帰省すると、あれだけ人を馬鹿と言って威張りくさっていた父が、それまでなかった弱音を吐くようになりました。
 私が実家に帰ればすむことでした。
 それは、お互いの解決策でもありました。
 しかしそれは、私にとって、あまり気のすすむことではありませんでした。
 どうせまた馬鹿にされるだけだと、ひねくれて考えていました。
 とはいえ、そうも言っていられない状況です。
 父のことも気にならないわけではありませんでした。
 それもまた、父も私と同じだったようでした。
 そうして私は、実家に帰ることになりました。

 特別秀でるものもない、そればかりか、人並みにできることも少ない私のような人間の半生とは、まず、こんなものです、と前置きして、先日、姉がうちに立ち寄った時のことです。
 彼女のひとり娘、つまり私の姪っ子にあたる子が、来年美術系の大学にまた進学する、という話を聞きました。
 また、というのは、姪っ子はすでに他の大学に通っていて、幼い時から絵が好きで上手だった彼女は、やはりそれを学びたいと言い出したらしいのです。
 それで、そういった学校に入り直すことになった、ということでした。
 絵のことに関しては、私にはよくわかりませんが、何度かなにかの展覧会に飾られたこともある彼女の絵は、他所様から見ても、やはり上手なのでしょう。
 私はこうして好きで文章を書いたりしていますが、たまに、何のために書いているのか、何の意味があるのか、そういう疑問がふと湧いてきて、書けなくなることがあります。
 今さら私がこんなことを書いても、と思えてくることがあります。
 絵も同じなのではと思って、そう聞いてみたところ、姉は言いました。
「あんた、ハタチそこそこの子が、何のために、なんて考えないわよ。娘なんてさ、『ゼロからイチを生み出す私すごい』なんだから」
 なるほど、と私は思いました。
 どうも私と姪っ子は、根本的に見方が違うようでした。
 そしてそれは、褒められて育った人間と、そうでない人間の違いでもあるような気もしました。

 違いといえば、昭和生まれの姉や私と、平成生まれの姪っ子との考え方には、何にしてもズレがあるようでした。
「私が就職の時はさ、就職氷河期だったじゃない。やっとこさ入った会社で、教わる立場なんだし、嫌なことがあっても先輩の言うことはハイ、ハイって聞いて、なんでもやりますくらいの気持ちでいたからさ」
 それを娘にも話した姉は、こう言われたそうです。
「ママ、バカじゃないの。嫌なところでそんなに我慢してどうすんの」
「何かにつけ『ママ、バカじゃないの』って言われる」
 そう姉は苦い顔をしていました。
 それは単なる親子のコミュニケーションのひとつであることも、わかった上でそういう顔をしているのですが、そんな姉に私は「それはナンだねえ」と言い、しかし出来の悪い私とは違って、昔から何事にも優秀だった姉が、バカじゃないの、と言われていることには、つい笑ってしまいました。

 そうやって変わっていくんだな、と私は思いました。
「時」は確実に過ぎ、目の前の世界は、古いものと新しいものが交差して、少しずつ変化しながら、そこにありました。

 話の順番はちぐはぐになりますが、私が実家に帰ってすぐのことです。
 自分の引っ越しの荷解きが済んで、まずしなければならないことは、片付けでした。
 家の中は、たくさんの物がありました。
 父はあまり、物を捨てるということをしませんでした。
 幼少期、物がなかった時代を生きてきた父は、もったいない半分、面倒臭い半分なのでしょう。
 もう使わない物や、使うことのできない物までとってありました。
「そんなにポンポン物を捨てるもんじゃない」
 と、亡くなった祖母もよく言っていましたが、それにしても、そのままでは動きづらくて仕方ありません。
 私はとりあえず、毎日使う台所から片付けはじめました。
 流しの下の棚からは、大きな保温ポットがふたつも出てきた時には驚きました。
 昔使っていたぼろぼろの炊飯器も出てきました。

 台所には、4人掛けのダイニングテーブルがあります。
 それもずっと昔、家族が5人だった頃は、もうひとつ丸椅子を持ってきて、食事をしていました。
 その丸椅子には、母が座っていました。
 ひとり、ふたりと減っていって、いつの間にか、そこに座るのは父ひとりになりました。
 私が帰ってきたので、少しは賑やかになったようでした。
 父の隣に私の椅子(昔からその位置だったので)があって、正面には、もう誰も座る人のないカラの椅子がふたつあります。
 その、父の正面の方の椅子に、毛糸で編んだクマが座っていました。
 それは大分前、私が編み物に夢中になっていた頃に作ったものでした。
 当時はしっかりしていた毛糸も、もう今はくたって、、、、しまって、体に対して少し頭の大きいそのクマは、首をうなだれたようになっていました。
 薄汚れてしまっていましたし、素人の作ったものなので、出来もよくありません。
 懐かしいものでしたが捨てることにして、ビニール袋へ毛糸のクマを入れ、収集の日まで、そうして置いておきました。

 収集の日が近づいてきたある日、父がその毛糸のクマをビニール袋から出していました。
 わりと大きなそのクマの、両腕の下に手を入れて、小さな子どもを持ち上げるように持っていました。
 クマはやっぱり、首をうなだれていました。
「これ」
 と父が言うので
「うん、私が作ったやつ」
 と私は答えました。
「捨てるのか」
 父は言いました。私は
「うん、だって出来も悪いし、もう古いし。首だって、そんなクタクタになっちゃって」
 そう言うと父は、ふうん、と言いながら、片方の手をクマの腕の下から外し、うなだれた首がまっすぐになるように、正面からクマの顔を支えました。
 その間、クマは顔を上げていましたが、父が支えていた手を外すとまた、コクンとうなだれてしまいました。
 それを黙って見ていた父は、ひょいとクマを小脇に抱え、こう言いました。
「出来が悪くても、いいじゃねえか」
 え、と思いましたが、父はそのまま、毛糸のクマをどこかへ持って行ってしまいました。
 私はそれを、ポカンと見ていました。
 後で、そのクマの居所を聞くと、それは、父の店に飾って置いてあるようでした。
 父は市場で、小さな店をやっていました。
 毛糸のクマは、今も首をうなだれて、店のどこかにちょこんと座っているのでしょう。

 私も今、こうして実家に置いてもらっています。
 褒められることは、もちろんありません。
「おまえは馬鹿か」と言われることも、今はもう、ありません。

✳︎

 自己紹介にしては、長くなってしまいました。
 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
 少しずつ、書いていきます。
 どうぞよろしくお願いします。


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