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奇妙なクマの物語「山のひと」

 最初は気のせいだと思った。いつものようにコンビニで雑誌を立ち読みしていたら、視界の隅を黒い影が通り過ぎたのだ。
 それは、なんだかむくむくしていて、犬のようにも思えた。どこかの腹を空かせた野良犬が、食べ物を求めて迷い込んだのだろうか。
 しかし、店内を探しても、犬などいなかった。第一、ここは町のど真ん中にあるコンビニだ。表の道路には殺気だった車があふれ、とても犬が来られる場所とは思えなかった。
 最近、酒ばかり飲んでいるから、神経がとがっているのかもしれない。僕は、すぐに黒い影のことなど忘れ、雑誌の漫画を読みふけった。


 黒い影が再び現れたのは、近所にあるスーパーマーケットだった。夕食のノリ弁当とカップラーメンを買いに来た私は、魚売り場に並ぶイカやアジを眺めていた。別に魚は好きではないが、海から出てきた生き物たちの姿が面白かったのだ。
 ふと、背後に気配を感じて振り向くと、缶詰が並んだ棚の裏から、いきなり黒いものが飛び出してきた。私の足にぶつかるように突進し、すぐに、お菓子売り場に向かって方向転換した。
 「熊だ!」
 だれかがけたたましく叫んだ。信じられないが、本当だ。大きさは中型犬ほどか。丸々と太った子熊が、床に爪を立てて走っていく。ガッ、ガッ、ガッ。ごわごわした黒い毛皮にたくましい手足。頭の上にちょこんと付いた耳も見える。 
 「きゃあ、熊だわ!」
 買い物かごを提げた奥さんが、通路のわきで青くなっている。動物園でもあるまいに、子熊が走り回るとは何たることか。悲鳴が響き、あちこちの棚から商品が落ちる。店内はちょっとしたパニック状態になった。


 そのうち、店の奥からたくさんの人たちが出てきて、子熊を追いかけ始めた。スーパーの従業員に違いない。稼ぎ時の夕方に、熊が暴れていては商売にならないのだ。みんな怒っている。目が三角になっている。
 「お客様に申し上げます。ただ今、店内で熊が悪さをしております。すぐに捕まえますので、ご安心してお買い回りください」
 スピーカーから、女性の声が流れている。僕はあまりのことに声も出せず、通路のど真ん中で突っ立っていた。
 「あんた、そこをどいてよ!」
 トイレットペーパーの袋をいくつも抱えたおばさんが、私の顔をにらみつけた。熊と私に買い物の邪魔をされ、ご機嫌が悪いらしい。
 子熊は必死に逃げ回ったが、追手の数が多すぎる。とうとう肉売り場に追い詰められた。ソーセージやハムが並んだ棚の前で座り込み、じっと下を向いている。息が荒い。首の白い縞模様が揺れた。
 「ふとい熊だ。ぶっ殺すぞ」
 肉売り場のおじさんが、大きな包丁を振り回している。あの様子だと、本当に熊を料理するつもりかもしれない。哀れな子熊は店員に囲まれ、体を小刻みに震わせている。



 その時、子熊と僕の目が合った。熊の瞳がきらりと光る。一瞬のことだ。子熊は店員のすきを付いて猛然とダッシュし、みんなの足の間を抜けた。そのまま僕を目指して駆け寄り、いきなり背中におぶさると叫んだ。
 「逃げろ、おじさん!」
 僕はきわめて単純な性格なので、そう言われると断れない。それに、言うことを聞かなかったら、どうなるか分からない。熊は頑丈なあごをしているから、首筋をガブリとやられたら大事だ。
 こうなったら仕方ない。僕は買い物かごを投げ出し、子熊をおんぶしたまま出入り口目指して走りだした。
「泥棒だ。熊泥棒だ」「そいつも仲間だ」
 だれかが、訳の分からないことをわめいている。こりゃ、やばい。背中ににしがみつた子熊は、小さくても凶暴な獣だ。このままだでは、さからえないし、店の人たちは僕を泥棒と呼ぶ。もう逃げるしかない。
 一生懸命走る僕に、子熊は声をかけ続ける。
 「逃げろ、逃げろ、逃げろ」
 出入口の自動ドアを突破し、店の前の歩道に出た。通りかかる人たちは、みんな目を丸くしている。
 もしかしたら、熊のぬいぐるみをおぶった変人と見られているのかもしれない。でも、これは本物の獣なのだ。
 熊が派手に暴れたら、ライフルや散弾銃を持った猟友会の人たちが出動すると聞いたことがある。前にテレビを見ていたら、オレンジ色のベストを着た猟師たちが熊に忍び寄っていた。
 子熊といっても、獣には違いない。子熊の仲間と思われたあげく、間違って撃たれたらどうしよう。走り続けて体が熱くなってはずなのに、子熊をおんぶした背中が寒い。全身に冷や汗をかいているのだ。

 どれだけの時間がたっただろう。何とか追っ手を振りきった僕は、人気のない公園にたどり着いた。ベンチに倒れ込み、うつ伏せになって休む。子熊は重いし、息が苦しい。たっぷり10分間は、そのまま動けなかった。
 「助けてくれて、ありがとう」
 背中の子熊がかわいい声を出した。
 「あやうく、食べられるところだった。人間は本当に怖いね」
 「おまえ、どこからきたんだ?」
 やっと、息をついた僕は、子熊に聞いた。
 「森からだよ」
 「コンビニにいたのもおまえか」
 「うん」
  子熊は、僕につかまったまま、ころころ笑った。
 「おじさんは良さそうな人だから、森から訪ねてきたんだよ」
  ふっと背中が軽くなった。子熊がベンチの上に座っている。
 「訪ねてきたって……」
 「うん」
 僕は、子熊の顔をあらためて見た。どこといって特徴のない普通の熊だ。目も鼻もまん丸で、ちょっと茶髪がかった黒い毛皮をしている。何度見ても、覚えのない顔だった。


 「おじさん。これは、僕のおみやげだよ」
 小熊が小さな袋を差し出した。中には、ドングリの実が詰まっている。
 「こんな物はいらない。とっとと森に帰れ」
 僕は怒った。どこの熊か知らないが、勝手に訪ねてきたあげく、騒ぎを起こされてはたまらない。
 「動物が町に来たってしかたないんだ。どうして僕に迷惑をかけた」
 「僕のことを忘れたの。ほら、3日前に森で会ったじゃない」
 確かに僕は3日前、町はずれの山に出かけた。食べられるキノコを探そうと思ったのだが、何も見つからずに帰って来た。僕は勤め先をクビになり、失業保険で生活している。キノコ狩りも遊びではない。
 そういえば、森を歩いている途中で、ガサガサという音がした気がする。子熊は木の陰にでも隠れて、僕を見ていたのだろうか。もちろん、僕は子熊の顔などしらない。
 なんと身勝手なのだろう。どうせ、山の中で退屈し、町で一旗あげようとした馬鹿な子熊に違いない。
 「もう一度言う。山のものは山に帰れ。ここは人間の町だ。そんな汚い熊につきまとわれたら迷惑だ」
 われながら、ぴしゃりと言えた。僕は子熊に背中を向け、さっさと歩き出した。子熊は黙っている。しばらくして後ろを振り向くと、ベンチの上でふてくされたように寝転んでいた。


 翌日の朝早く、僕はドアをたたく音に目を覚ました。トン、トン、トン。時計を見るとまだ6時前だ。腹を立てた僕は、アパートのドアを開け放してすごんだ。
 「どこの馬鹿だ。うるいぞ」
 「おはようございます」 
 目の前に、昨日の子熊がいた。よく見ると、ほかの動物が二匹もいる。1匹は熊に比べると小さいが、猫よりは大きい。イタチかハクビシンか、とにかくそんなやつだ。
 もう一匹は長い耳をしている。こいつなら分かる。ウサギだ。連中はアパートの部屋の玄関前に座り、さも当然のようにすましている。
 僕はあきれていた。子熊だけでも迷惑なのに、こんな仲間まで連れてくるとは。昨日、あれだけ叱ってやったのに、なんと厚かましいことか。    「また、熊か。どうして山に帰らない」
 僕は、不機嫌な顔をつきだした。
 「帰れないんですよ」
 子熊が困った顔をした。
 「帰ろうとしたけど、町が広すぎるもので」
 「そっちの仲間はなんだ」
  僕は、そばに立っている二匹を指さした。
 「僕の友達だよ。おじさん。この子たちも森に帰れなくて、公園や空き地で暮らしているんだ。ねぇ、かわいそうでしょ」
 子熊がなれなれしく答えた。いやなやつだ。熊のくせに、人間をなんだと思っているのだろう。子熊はきっと、僕の後をこっそりついてきて、部屋を
確かめたのだろう。
 「それで、何しに来たんだ」
 僕は固く腕組みし、子熊を見下ろした。
 「森に連れて帰ってほしいんだよ。僕は道を忘れてしまったし、友達も知らないんだ。それでなければ、おじさんの家に入れてよ。僕たちお腹も減っているし」
 子熊は、全く悪びれた様子かない。僕の世話になるのは当たり前といった調子で続けた。
 「なんで熊を家に上げるんだ。うちは動物園じゃないぞ」
 僕は部屋を指さした。たった一間のアパートなのだ」
 「じゃあ、山に連れて行ってよ。おじさんの後を着いていくから」
 馬鹿な動物どもだ。子熊のような「山のもの」がいきなり町にやってきて、無事に過ごせるはずがない。今までだれにも捕まらず、毛皮にされなかったのが不思議なほどだ。
 このまま追い出してやろうかとも思ったが、子熊たちは世間知らずだ。どうせ、すぐに舞い戻るだろう。その度に騒ぎになっては、僕の方が困る。まぁ、仕方ない。ここボランティアだとでも思って、子熊たちを山に戻してやろう。
 僕は手早く着替えると、外に出た。僕の後ろに子熊、その後ろにハクビシンのような動物が二匹が続く。近所の犬がうさんくさい顔で、僕たちを見送っていた。


 「町はやっぱりすごいねぇ」
 ハンバーガー屋の前を通ると、子熊が大きな声を出した。歩道から店の中を無遠慮にのぞきこんでいる。
 「あのおいしそうなものは何だろう」
 子熊とハクビシンらしき動物は、そのまま固まってしまった。ちらちらと、横目で僕を見る。店の中からお姉さんが出てきて「どこかに行ってください」と言っても、動かなかった。
 結局、僕はハンバーガーを買わされてしまった。このまま居座っていようものなら、スーパーの二の舞になる。ともかく立ち去らないと、それこそ猟友会を呼ばれかねない。
 子熊たちは、歩きながらハンバーガーを食べた。次には「のどが乾いた」と騒ぎ、自動販売機でコーラを買わされた。スーパーの前では「リンゴがほしい」とねだり、コンビニの前ではお菓子をほしがった。
 いくら叱っても、子熊たちは言うことを聞かない。さんざん歩いて町を離れ、山道に入るまでに、ぼくの財布は空っぽになった。
 山の中の林道では、子熊たちが僕の前を歩きだした。
 「やっぱり、山のものは山にいるのがいいね」
 子熊は口の周りにチョコレートのかすをつけたまま、こましゃくれたことを言った。


 山は静かで、どこを見回しても人間はいない。町にいるときは、どこかおどおどしていた子熊たちだが、ここではえらそうにしていた。
 林道もやがて終点となった。突き当りの湖までたどり着いた時、僕は足を止めた。
 「ここまで来たらいいだろう。もう帰るからな」
 「もう帰るの」
 子熊たちが一斉に振り向いた。
 「おまえらを連れ歩くだけで、疲れたんだよ。もう迷い子にはならないだろ」
 「帰っちゃだめだよ」
 それまで黙っていたハクビシンらしい動物が僕の足にしがみついた。
「おじさんも『山のひと』だから、一緒にいるんだよ。これから、ずっと」
 僕は本当に腹が立った。ここまで面倒を見させたうえに、まだ甘えている。これだから、山の動物はいやだ。
 「こんな山の中になんぞ、いられるもんか。いつまでもつきまとうなら、みんな動物園に売り飛ばすぞ」
 半分は本気だ。僕は、子熊たちをにらみつけ、町に向けて引っ返そうとした。早足で歩きだす。



 「ちょっと待った、兄さん」
  突然、図太い声がした。子熊たちの声じゃない。どきっとして振り向くと、大きな熊がいた。僕よりも、ずっと背が高い。手足は丸太のように太く、のこぎりみたいな牙がある。
 「うちの子が世話になったのに、そのまま帰したら、義理がたたない。しばらく、山で遊んでいきな」
 「そうとも、いろんなごちそうもあるしな」
  どこから現れたのだろう。ハクビシンらしき動物の親までいた。
 僕は自分でも分かるほど慌てた。とても断れる雰囲気じゃない。熊が襲ってきてら、きっと殺されてしまう。
 「パパの言う通りにしなよ。おじさんのことは、僕が伝えておいたんだ」
 子熊が近寄ってきた。
 「伝えておいた?」
  不思議だった。動物どもが電話を使えるはずがない。ほかにも仲間がいたということか。
 結局、僕は熊たちに連れられ、山の奥に歩いていった。いくつもの谷を渡り、深い藪を通り抜けた。へとへとに疲れたあげく、山頂とおぼしき森に到着した。
 それからの日々、僕は木の実や山イチゴをいやというほど食べさせられ、はちみつもなめた。まともな食べ物ではない。でも、動物たちに囲まれていては、嫌とも言えない。
 夜は熊たちと一緒に寝た。大きな木の下に、洞穴がある。地面には落ち葉が敷き詰められ、ふかふかしている。もちろん真っ暗だから、横になればすぐ眠くなる。
 もちろん、何度も山を下りようとした。ここには、ビールもなければ、コンビニもない。町の暮らしに慣れた僕にとっては、何より寂しすぎた。
 でも、子熊たちは僕を帰そうとしなかった。
 「お兄さんは『山のひと』だから、僕たちの仲間だよ」と、とんでもない事を言い出す始末だ。
 


僕は毎日、子熊たちに連れられ、山を歩き回った。一週間もたっただろうか。不思議なことに、僕は失業していることを忘れていた。そもそも仕事がないのだから、町に帰っても仕方ないと思い始めた。
 ここにいれば、とりあえず食べ物には困らない。やがて、アパート町の部屋のことも忘れてしまった。僕はもともと、町の暮らしが合っていなかったのかもしれない。テレビもなければ、ラジオもない。その分だけ山は静かだし、他人がいなければ気楽だ。
 山の暮らしは、僕を変えてしまった。
 付き合ってみると、動物たちは気がよくて、愉快な仲間だった。これなら、一人で暮らしている町より、居心地がいい。町に帰ったところで、どうせ一人きりだ。たとえ動物でも、話し相手がいるのは、うれしかった。
 ある日、親熊が僕に言った。
 「兄さんの巣には、だれかいるのかい」
 「だれもいないよ」
 「狩りにでも出たのかい」
 「いや、初めからいないんだよ」
  僕は、殺風景な部屋を思い出し、ため息をついた。
「それなら、このまま山にいるといいよ」
 親熊は、ごわごわした耳を動かした。
 「すっからかんの巣にいたって、どうしようもないよ」
 気のせいか。その目は、僕を哀れんでいるように思えた。
 僕は今も山で暮らしている。本当のところ、僕はずっと前から「山のひと」だったのかもしれない。
 子熊たちはあれ以来、町に出ることはなかった。ハンバーガーを食べ過ぎて腹をこわし、親にこってりと怒られたのだ。
 僕は町を捨て、こうして物語を書いている。もうすぐ太陽が沈むから、眠る準備をしなくてはならない。
 夜になると、山の稜線が連なる果てに、町の灯りが見える。今では、そこに帰ろうとも思わない。不便な暮らしが嫌になることもあるけど、一人でいる怖さと寂しさに比べたら、どうということはない。
 こうして、僕は山のひとになった。

 


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