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牧野富太郎を支えた幻の画家 山田壽雄の植物図を見た
高知県出身の植物分類学者で、1500種類以上の植物を命名した牧野富太郎博士(1862~1957)。生涯で40万点を超える植物標本を収集した博士には、植物図の名手だった相棒がいた。福島県に生まれ、明治の終わりから昭和初期にかけて活躍した山田壽雄(1882~1941)。牧野博士の「大日本植物志」や「牧野日本植物図鑑」に掲載された植物図を手がけ、精緻で美しい作品を残した。高知市の県立牧野植物園で開かれた初の企画展を訪れ、幻の画家とも呼ばれた山田の世界に触れた。
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「この世に雑草という名の植物はない」。94年の生涯を植物に捧げた牧野博士は、昨年放映されたNHkの連続テレビ小説「らんまん」で一躍有名になった。
現在の高知県佐川町で生まれ育った牧野博士は、14歳で佐川小学校を自主退学する。独学で植物の知識を身に着け、65歳の時に理学博士の学位を受けた。帝国大学理科大学助手、同講師を勤めたものの、高価な図書の購入などで生活は困窮。家賃が払えず、25回もの引っ越しを重ねている。
「草木は友だち」の精神を貫き、植物研究さえできるなら、金も地位もいらない。そんな飾らない人柄が愛され、全国の人たちに植物の知識と魅力を伝える大きな役割を果たした。
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牧野富太郎は40代前半で、20歳年下の山田壽雄と出会った。牧野自身が植物図の第一人者として知られており、山田はその指導を受けながら才能を開花させていく。
当時は写真が普及しておらず、植物図は学術論文や図鑑に欠かせないものだった。二人は正確な図を描くため、植物の形や質感を途方もない時間をかけて観察した。植物のすべてを理解していたからこそ、カラー写真にも劣らない作図ができたのだろう。
山田は1925年に牧野が発表した「日本植物図鑑」と、1940年出版の「牧野日本植物図鑑」の図版を制作。「作品は絵ではなく図である」との信念のもと、植物の実体に迫る図を描き続けた。
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「幻の画家 山田壽雄の植物図」と題した企画展(8月10日~11月24日)には、120点が集められた。山田の作品は今年3月、初めて発行された自身の画集に90点が掲載され、牧野博士を支えた画家として注目を集めた。企画展は、長い間表舞台に立つことがなかった山田のために開かれた。
私は企画展の最終日に、山田の作品を間近に見た。マンサク、ヒメユリ、ユズ、カラスウリ。そこには馴染み深い植物が描かれていた。
ほとんどの植物図は彩色されており、今も色あせてはいない。
「これは本当に絵なのか。写真ではないのか?」。そんな愚かなことを考えてしまうほど、完璧な作品が並んでいた。
企画展のポスターにもなった「ヤマモモ」は、赤く熟した5個の実をつけている。まるでキャンディーのような実の可愛らしさ、葉脈が透けて見える緑の葉、しなやかな枝。
私は今年の夏に、ヤマモモの実をたくさん摘んで果実酒にした。実際に手にした植物だからこそ、見事な立体感に驚いた。見れば見るほどすごい。私に絵の知識はないが、山田の観察力と画力がけた外れに優れていることぐらいは分かる。
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山田の植物図は、牧野の影響を強く受けている。「牧野式」と呼ばれる植物図法は、植物の姿を正確かつ精密に描くことに主眼を置いた。細い面相筆を使った線は鋭く、植物の全体像から花や種子の形、根の形状、茎の断面までを一つの画面で再現する。牧野はルーペや顕微鏡まで駆使し、植物の真の姿を把握しようとしたのだ。
牧野の教えを受けた山田は、一生をかけて植物図と向き合っていく。牧野が「山田壽雄氏ニ描カセシ一番最初のモノ」と書き記した作品は、線図の「ナニハバラ」だ。牧野の植物画には到底及ばないものの、師の期待に応えようとした気迫があふれている。
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山田の植物画はやがて、牧野の研究活動にとって必要不可なものになった。当時、山田は「画家」ではなく「画工」と呼ばれた。植物研究のために描かれる絵は、植物の特徴や形を正確に伝えることが求められる。そこに作者の主観はいらない。主観を交えてデフォルメしたあげく、ゴッホの「ひまわり」のようになったら、とても図鑑には載せられないのだ。
「作品は絵でなく図である」と語った山田は、自分が芸術に携わる「画家」とは思っていなかったに違いない。植物分類学という学問に役立つため、ただ1人の「職人」として力を尽くしたのだろう。それでも、山田の植物図には見る者を夢中にする美しさと力強さ、そして言葉では言い表せない不思議な魅力がある。
牧野は植物図を追求する山田に絶大な信頼を寄せ、山田が他の学者からの依頼を受けると悲しんだという。山田も生活のためには仕事を選べない。経済的な問題を抱えていた牧野は、自分の片腕ともいえる弟子が離れていくような寂しさを隠せなかったのだろう。
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企画展の会場は、最終日だというのににぎわっていた。一緒に来た妻は山田の作品を食い入るように見つめ、なかなか動こうとしない。親類に洋画家がいた妻は、自分も若いころに画家を目指したことがあった。
「年を重ねるにつれて、円熟味が深まることがよく分かる。ただ植物を描いているだけなのに、ここまで感動するのはどうしてなんだろう」
妻だけではない。見学者の多くが、同じことを思ったに違いない。
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これだけの功績を残した山田壽雄だが、なぜか写真は1枚も現存しない。山田は極端な写真嫌いで、自画像すら無いという。家族で写した写真に自分が入っていると、そこだけ切り抜くほど徹底していたそうだ。
これに対し、牧野富太郎博士は写真が大好きで、だれとでも記念写真におさまった。牧野の写真は、牧野植物園が収蔵するものだけで1000枚を超える。山田がどうして写真を嫌ったのかは分からない。
私は山田が根っからの職人気質で、牧野のように目立つことを避けていたのだと考える。山田にとっては、植物図こそがすべてだった。自身の生きざまと誇りを託した作品さえ世に出れば、自分は無名のまま忘れられてもいいという覚悟があったのだろう。
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牧野植物園の本館には牧野博士の生涯と研究内容を伝える常設展示があり、牧野直筆の植物図や植物標本、蔵書といった多数の資料が集められている。趣向を凝らした展示の中でも、博士の自室を再現したコーナーは見所のひとつだ。
部屋は雑然としていて、新聞紙に包まれた植物標本が山のように積まれている。和服姿の博士は、裸電球の下にユリの花を置き、植物図に写している。晩年の姿なのだろう。老いた博士は背中を丸め、机に体を預けている。
それでも、ユリを見つめる表情は優しく、とても楽しそうだ。
植物と対話し、自然と一体となる。山田も、こうやって植物図を描いた。きっと、博士と同じような姿だったろう。
山田の企画展には、牧野が1940年7月2日に奈良県で採集し、山田に作画を依頼した「ツルマンリャウ」の植物図が展示されていた。
この作品のみが未完であり、図の左半分には花が咲いた枝を描く予定だったらしい。山田は翌年の4月17日にこの世を去った。58歳の短い人生だった。
牧野植物園は1958年、土佐湾を望む五台山で開園した。面積8㌶の広大な園内では、3000種類以上の野生植物や園芸植物が来場者を迎える。
南国高知といっても、今はすっかり寒くなった。
起伏に富んだ植物園を風が吹き抜ける。散策路のそこかしこで小さな花が咲き、赤い木の実が輝いていた。
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