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山の怪奇 単独猟で出会う不思議な世界
フリーカメラマン田中康弘氏が2015年に発表した「山怪・山人が語る不思議な話」。猟師や林業関係らから聴き取った奇妙な体験をまとめた本には、さまざまなエピソードが登場する。存在しないはずの山中の道に迷いこんだり、巨大な狐火に遭遇したり。14発の銃弾を受けても倒れない白い鹿。ライオンのような見たこともない獣。経験豊富なマタギの男が、雪洞で野営中に自分を呼ぶ声を聞き、外に出て遭難しかける話もある。私は30年以上、狩猟で各地の山に入ってきたが、残念ながら人に語れるような怪奇現象は経験していない。それでも、正体不明の音を聞いたり、夕暮れの山道で得体のしれない気配を感じることはある。山はどこまでも深い。そこには、確かに人知の及ばない何かがある。
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愛知、岐阜、長野、滋賀の4県で転勤を重ね、各地で狩猟を続けてきた。最初はキジ、カモなどを狙う鳥猟から入り、やがてシカやイノシシを追う大物猟(巻き猟)に参加した。
通算12年勤務した岐阜県と、7年暮らした長野県はとくに思い出深い。大物猟は息の合った仲間が連携し、猟犬を使って獲物を追う。長野の雪山では、獣道で獲物を待つ「タツマ」に入り、長い時は4時間近くも息を殺した。岐阜で大物猟をした時には、突然背後から現れたイノシシに襲われそうになった。
息を弾ませながら、険しい山の斜面を走り抜ける猟犬。無線機から聞こえる緊張した声。冬枯れの稜線を疾走する美しいシカの姿。数多くの猟師たちとの出会いは、私を未知の世界に誘ってくれた。故郷の高知県に戻った今も、懐かしい数々の猟場が忘れられない。
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グループで行う大物猟の場合、基本的に単独で行動することはない。タツマ、あるいはマチバと呼ばれる待機場所では一人になるが、常に無線でやり取りをしている。それがどんなに寂しい場所でも、すぐ近くに仲間の息遣いを感じているのだ。
田中氏の「山怪」には、だれもいないはずの山中で見知らぬ猟師を目撃する話が出てくる。これは別の意味で怖い。大物猟で一番大切なのは、仲間を誤射しないための事故防止対策だ。猟場の中に他の猟師が入り込んだら、獲物と間違えて発砲する危険が高まる。
ベテラン猟師は獲物がよく通る獣道を熟知し、山中の目印となる場所に「一本杉」とか「鉄塔」といった名前を付けている。「後家さんの家」「廃材」「ケーブルカー」など変わった呼び名も多いが、仲間うちならそれで理解できるのだ。
「後家さんの家の裏から登って、一本杉を目指し、大きな岩の陰で待て」。こんな調子で、射手を配置するのである。お互いの安全を確保するため、射手は必ず隣にいる仲間の位置を確認する。万が一にも仲間を誤射しないため、銃の向きには細心の注意を払う。グループ内だけで通じる場所の呼び名は、大切な情報なのだ。
岐阜県海津市では「首吊り」と呼ばれるマチバがあった。想像通り、ここで猟師が自殺した人を見つけことがあったのだ。ちょっと気味が悪いが、このマチバは猟の実績が高かった。
自殺現場といういわくつきの谷間で、ライフルを抱えてじっと獲物を待つ。猟が始まれば、獲物の動きに集中する。一人きりでいても、何の不安もなかった。
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これが単独猟となると事情が変わる。鳥猟にしても大物猟にしても、山に入るのは自分一人なのだ。もちろん、無線の話し相手はいない。ただ黙々と山道を登り、森の中で獲物を探す。
グループ猟とは違い、仲間に支えてもらえる安心感はない。自分の安全は自分で守り、何が起きても対処しなければならない。自然と神経が研ぎ澄まされ、どんな小さな音にも体が反応するようになる。
歩いていると、林道の斜面や渓谷、茂みの中などいたる場所から音が聞こえてくる。「コン、コン、コン」というのは、キツツキの仲間が木の幹を穿っている音だ。「ドルルルル」と響いてくるのは、ヤマドリが翼を激しく打ち鳴らす「ドラミング」に違いない。「ガサ、ガサ」という音がすれば、きっと獣の足音だろう。
人の動きに気づいたシカは、甲高い声で笛の音のような警戒鳴きをする。どこかでスマホの着信音がすると思ったら、カエルの仲間だったこともある。山は静かと言われるが、案外にぎやかなのだ。
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それでも、時には正体不明の音がする。岐阜県郡上市の林道では、雪に覆われた谷間の林から「バキッ、バキッ」と木が倒れるような音が繰り返し聞こえた。
林道に車が入った形跡はなく、シカが通った跡しか見えない。どこを見回しても人はいない。ならば、音の正体は何か。私は雪の重みで木が倒れたのだと考えた。何も不思議はないと、無理やり自分を納得させた。
もっとも、木の上の雪はほとんど風で飛ばされていたのだが。
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高知県に帰ってからも、林道で同じような体験をした。今度は山の斜面から、木の幹をたたく「カン、カン、カン」という音がしたのだ。この林道は長く使われておらず、車は通らない。だれかが木を切っているのか。斜面には雑木が生い茂り、ジャングルのような状態だ。気になって調べてみたが、どこにも人はいなかった。
怪しい音は数回聞こえ、パタリとやんだ。水木しげるの「日本妖怪大全」には、竹藪で不思議な音を響かせる「竹切狸」なる妖怪が紹介されている。もしかして、私はタヌキにからかわれたのか。真昼間だから、怖くはない。そのまま、また歩き始めた。
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山に入ると、こんな出来事は珍しくない。「山怪」では、多くの怪しい音はタヌキかキツネの仕業とされている。タヌキの中には、チェーンソーの音を真似する輩もいるらしい。もともと、山は動物たちのテリトリーである。
「生き物がいるなら、当然音がする」と思えば、別に気にもならない。野鳥のオナガは「キャー」と鳴き、人間の叫び声に似ている。もしも山を怖がっていたら、きっと逃げ出したくなるだろう。
林道沿いの渓谷から「グフッ、グフッ、グフッ」という低い音が聞こえた時には、イノシシの鳴き声かと身構えた。銃を構えてゆっくり近づいたが、何もいない。カエルの声にしては大き過ぎた。今でも、正体は分からない。
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単独猟をしていても、音が原因で恐怖に陥ることはない。私が苦手なのは、夕暮れの山道で感じる怪しい「気配」である。私は通常、午後3時までには山を下りることにしている。それが、何かの都合で遅くなると、決まって落ち着かない気分になるのだ。
猟期は11月15日に始まり、原則として翌年2月15日まで続く。晩秋から冬がシーズンだから、当然日没は早い。うっかりしていると、山はあっという間に暗くなる。
林道や細い山道は、山裾を縫うようにうねうねと続く。午後4時を過ぎると、太陽の光は届かない。気温も一気に下がる。薄暗い道を歩いていると、やたらに背後が気になるのだ。
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山の中の道は曲がりくねり、見通しが悪い。一人きりで歩いていると、不意に背中がゾクリとすることがある。別に足音がするわけではない。何か得体のしれない者が背後にいて、じっと見つめられているような気味悪さなのだ。
昔から、昼と夜の境目になる夕暮れは「逢う魔が時」と言われ、魔物と遭遇する危険な時間帯とされた。人間が自由に歩き回れる昼間とは一変し、山は夕暮れとともに動物たちの世界になる。暗闇に対する本能的な恐怖が、ありもしない「気配」につながるのかもしれない。
私は何の因果か、子どものころから妖怪が大好きだ。水木しげるを師と仰ぎ、妖怪に関する本を読み漁った。水木氏の故郷である鳥取県境港市に通いつめ、妖怪ロードを憑かれたように歩いた。
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広島県三次市の「三次もののけミュージアム」、徳島県三好市の「妖怪屋敷」、島根県松江市の「小泉八雲資料館」。あまりにも不思議な世界に足を突っ込み過ぎたため、どうやら妖怪をはじめとした不可思議な存在に取り込まれてしまったようだ。
背後の気配に怯え、恐々と振り返っても何かが見えるわけではない。妖怪などいないと分かっていても、やはり怖いものは怖い。猟犬を連れ、散弾銃やライフルを背負っていても、足は自然に早くなる。思えば、情けない猟師である。
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水木氏は、奈良県によく現れたという妖怪「べとべとさん」を描いている。この妖怪に出会うと、だれかが後をついてくるような気がすることから、怖くて振り向けなくなるそうだ。
もしや、私は山道で「べとべとさん」と仲良くなってしまったのだろうか。水木氏によれば、この妖怪は「先におこし」と声をかければ立ち去るとか。今度、やってみようかな。しかし、ある人は「先に行くと、暗くて歩けない」と言われ、べとべとさんに提灯を貸してやったという。
提灯? やはりヘッドライトでは、だめなのか。なんだかんだ言っても、山はおっかない。これからは、さっさと引き揚げよう。
正体不明の「気配」の正体は、自分自身が無意識で発した警告なのかもしれない。「おい、とっとと山を下りろ。暗くなったら、ヤバいことが起きるぞ」と。
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