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試し読み1『love and eat』より「恋まではあと三分」

     恋まではあと三分

 街路樹のイチョウが黄色く色づいてきたのに気づき、平川ひらかわは軽く足を止めた。
 扇形の葉が、高く澄み渡った空を背景に、そよそよと揺れている。秋だなぁ、と思ったと同時に、ひんやりと乾いた風が、スーツの襟元を吹き抜けていく。
 思わず身震いしてしまう。晴れているし近場だからと上着を着てこなかったのだが、油断した。道行く人々を見れば、早くも薄手のコートを着込んでいる姿も多い。
 早めに戻ろう、やらなきゃいけないこともあるし――と平川は足を速め、ワンブロック先にある中規模の雑居ビルに入った。エレベーターで四階に上がり、オフィスへと続くドアを開ける。
「戻りました」
「ああ、お帰りなさい。ありがとうね、平川くん。助かるわあ」
 同じ事務員である吉田よしだに、記帳を済ませてきた通帳と、両替してきたお金が入っている革製のポーチを渡す。歳のせいか膝の調子が悪くなってきたと嘆く彼女の代わりに、この頃は自分が、銀行などの外出を受け持つことが多い。
「ちょっと、給湯室行きます」
「はーい、どうぞ」
 座らずにそのまま廊下に出、隣の、冷蔵庫や電子レンジなどが置いてある給湯スペースに向かう。と、やっぱりだ。まだ昼前なのに、電気ポットの残量計の赤い線が、かなり下まで下がっている。
(いきなり寒くなってきたもんな、最近)
 平川はため息をこぼし、プラグを抜いてポットの蓋を開け、さっそく給水に取りかかる。
 自前のカップでお茶やコーヒーなどを飲んでから仕事に取りかかる社員が、今週になってから目に見えて増えている。十一月の中旬、イチョウの葉が色を変えつつあるように、人間もまた、温かいものを欲しがる季節になってきたようだ。
 プラグをきっちり戻して〈沸騰〉のボタンを押し、ポットの稼働音をしかと聞き届けてから、給湯スペースを出る。これで昼にはちょうど沸いているだろうと、ささやかな満足感を覚えながら。
 ついでなのでコピースペースにも立ち寄り、用紙を補充する。大した手間ではないのでささっと済ませてしまう。マゼンタのトナーのストックがなかったので、自分のデスクに戻ってすぐに業者に電話し、そして、途中になっていた他の仕事を片付けていく。
 オフィス機器のリースなどを行う今の会社に転職してきてから、すでに三ヶ月。
 前職も事務系だったので、仕事はすぐに覚えることができた。会社の規模としてはそこまで大きくはなく、三十代以上の社員が多いこともあって職場の雰囲気はしごく落ち着いており、毎日マイペースに働くことができている。
 経理を担当する吉田の向かい側のデスクで、平川は主に備品の発注や、電話対応、来客対応、社員の出張の申請、その他、こまごました雑用を一手に引き受けている。自分の性に合っているのか、こういった地味な仕事は苦にならない方だ。というか、正直言ってけっこう好きだ。
 オフィス環境を快適に整えておくのは気持ちがいいし、それに、自分は人前にぐいぐい出て行ける性分ではない。学生時代からそれは痛感している。だからむしろ、縁の下の力持ち的な存在であろうと心がけているのだ。たとえ目立たなくとも、こういうささやかな仕事こそが、もっと大きな仕事を支える土台になっていると思うから。


 十二時を過ぎると、営業の社員たちが続々と戻って来、それぞれのデスクで昼食を取り始める。そしてまた、コートを着込んで得意先回りへと向かって行く。
「休憩いいわよ。平川くん」
「はい。では失礼します」
 ひと言言い添え、小ぶりなカップみそ汁を片手に給湯スペースへと向かう。他の社員同様、食事時に一品温かいものが欲しいのは平川も同じなのだ。
 が、やはりというか何というか、またポットの残量計が、給湯ラインぎりぎりまで下がっている。横のゴミ箱にはなるほど、ビッグサイズのカップ麵の空が、ビニール袋に入った状態で押し込まれていた。
 やれやれ……、と思いながら、湯気に気をつけて蓋を開ける。中をのぞくと、湯は平川のみそ汁分くらいはあるかという微妙なところだった。だが、せっかくだ、新しいのを沸かそうと、よっこらせとポットを持ち上げる。
 この分ではきっと、午後も湯を使う人が続出するだろう。だからフルに新しい水を入れ、沸騰ボタンを押す。多めに入れておくに越したことはない。その分沸くのに時間がかかってしまうが、これはもう仕方がない。
 湯が沸くのを待つ間、給湯スペースをさっと掃除する。朝に吉田が出勤した時にやってくれているが、こういうのは気づいた人がさっさと済ませた方が効率がいいのだ。大した手間でもないし。
 棚に落ちている湯の雫などを拭き取り、ついでにシンク周りも拭いておく。そうこうしているうちにポットが静かになり、保温のオレンジのランプがピッ、と点く。
 よし、とみそ汁のフィルムを剥がしかけたところだった。誰かがスペースに来る気配がし、出し抜けだったのでぱっとそちらを向く。
「おう、お疲れ」
 営業の館岡たておかだった。特大サイズのカップ麵を抱え、朗らかな笑みを添えて挨拶してくる。
 館岡は、平川よりひとつ下の二十五歳。会社内では一番若く、その分、皆からの期待を一身に浴びている有望株だ。快活な話し口調といい、ダークブルーのスーツを着こなした清潔感溢れる外見といい、まさに営業の鑑のようなルックスをしている。そのとおりに着々と新規顧客を増やし続けているのがまた、伊達ではないと思う。
「あ、お疲れ様です」
 いつも外を飛び回っている館岡とはたまにしか顔を合わせないので、同年代なのにちょっと遠慮がちな口調になる。面と向かって話をしたのも、まだ数えるほどだ。
 広くはない給湯スペースからいったん出ようとすると、しかし館岡が「ん? おい」と困惑顔をする。
「平川、何でお前が出るんだよ。先に入れろよ、お湯」
 手にしているカップみそ汁を身体の影に隠しつつ、平川は、いいよ、と笑顔でかぶりを振る。
「食べたらすぐ出るんだよね? いいよ、お先にどうぞ」
 館岡は昼食を取ったのちはささっと書類仕事を済ませ、またすぐに営業先に飛び出して行くと、同じ営業の社員から聞いたことがあった。今日は月曜だから、足を運ばなければならないところは多いはずだ。だったら、一分でも時間は惜しいのではなかろうか。
「ちょうど、さっき沸いたばっかりだから……じゃ」
 一日中オフィスにいる自分より、忙しい館岡に順番を譲ってやるのは当たり前のことだ。何か言われる前にささっとこの場をあとにしようとするが、館岡はさらに眉を寄せ、こちらを強引に引き留めようとしてくる。
「そうはいかねえって。お湯沸かしてくれてんのは平川だろ?」
 どきっとした。自分のささやかな〈仕事〉を――誰に注目されることもない小さなそれを、しっかり見ていてくれた人がいたとは。
 驚くあまり、思わず立ち止まってしまったこちらを逃すまいとしてか、館岡は勢いよく喋り続ける。
「お前が先にここにいたんだから、変に遠慮せず先に使えよ。俺なら別に、何とでもなるんだし」
「い、いいよ。そんな……」
 意図せず譲り合いになってしまったのが気まずくて、平川は及び腰の体勢のまま、じりじりと身を引いていく。そしてそのまま、相手の身体の横をすり抜けるようにして、大急ぎでこの場から立ち去る。
「おい、平川。おいって!」
 声は追いかけて来たが、さすがに本人までは追いかけて来なかった。自分のデスクがある部屋へと戻り、ふう、と肩の力を抜く。館岡がいる営業部とは別の部屋であったのが幸いだ。
「……吉田さん、電気ポットって、もう一台買えないんですかね」
 向かいの吉田に話しかける。今ある電気ポットは業務用の大型タイプだが、もう一台、家庭用サイズのものでもあれば、変に気を遣い合うこともなくて済むのではないだろうか。が、それを聞いた吉田が、老眼鏡越しに眉を下げる。
「前に申請したことがあったんだけど、何だかんだ言われてそれっきりうやむやになってるのよね。ケチだから、総務」
 パーテーションの向こうが総務課なので、そこだけ小声になる。平川はため息をついた。総務課の主任はけっこうな頑固者なので、口説くのは難しいかもしれない。
「……そうですか」
 残念ではあるが、致し方がない。絶対に必要なものというわけではないのだ。事実、ポットに人が殺到するのは冬だけなのだし。ただ、館岡のように、季節を問わずいつも昼にカップ麵を食べている社員などは、ポットが増えたら喜んでくれるんじゃないか――
 先ほどのひと幕のせいか、館岡の姿が頭に浮かんできた。さっきは慌てすぎたせいで、彼に対して逆に失礼なことをしてしまったのではないかと、今になって気恥ずかしくなってくる。だがしかし、館岡のような職場のホープが、まさか自分のような地味な奴の仕事に着目してくれているなんて、夢にも思わなかったからだ。


 その日の夜。
 定時で上がったのだが、書店に寄ってつい長々と立ち読みしてしまったので、帰宅が遅くなってしまった。電車に揺られて最寄り駅で降りてみると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
 陽が落ちるのが早くなったな――と思いながら、一人暮らしのアパートに向かって歩いて行く。と、その途中でコンビニが目に入った。特に買うものなどはないのだが、皓々とまぶしい灯りに誘われ、何となく自動ドアを潜ってしまう。
 店内をひと周りし、いつも鞄に入れているフリスクと、目についたミルクティー味のキャラメルを手に取る。寒くなってくると、温かいものだけでなく、ほっと安心できるような甘いものも欲しくなるのだ。
 有人レジに店員がいなかったこともあり、ひとつだけあるセルフレジに向かう。と、弁当を片手に持った中年男性が、ぬっと横合いからやって来た。
「あ、どうぞ」
 平川は特に何も考えることなく、一歩下がって手でレジを指し示す。別に急いでいるわけではないのだ。譲ってもこちらは構わない。
「……、」
 男性はしかし無言で、どうでもいいような顔をして、さっさとレジへと向かった。しかめっ面のままでバーコードをスキャンし、千円札をぞんざいに突っ込んで出てきた釣り銭をもぎ取ると、弁当を抱えて足早に店を出て行った。こちらには、ただの一瞥もくれず。
(……、何だよ)
 口許を、小さく引き結ぶ。
 礼を言われたかったわけではない。だが、何か……会釈くらいはしてくれたってよかったんじゃないか。聞こえていなかったわけでも、こちらに気づかなかったというわけでもあるまいし。
 平川はその場に立ち尽くしたまま、悶々とする胸の裡をなだめた。だめだ、考えれば考えるほど凹みそうになる。別に、大したことじゃない。そうだ、こんなのは、ごく些細なことなのだ。譲った方も、譲られた方にとっても。だから、気に病みすぎることはないじゃないか。
 そう考えて気持ちを落ち着かせ、さっさと会計を済ませて家に帰ろうとすると、
「……お前、いっつもそうなのな」
 背後からいきなり声をかけられ、ぎょっとする。見ると、そこには苦笑をこぼす館岡がいた。片手に缶ビールの六本パックと、つまみ類をいくつか持っている。
 館岡は、中年男性が出て行った方を軽く睨み、やれやれと肩を竦める。
「しょうもねえオッサンだな。礼のひとつも言わないで……ま、ああいう無礼者はとっとと忘れちまえばいいさ。別に、平川が悪いわけじゃねえんだから」
 そしてもう片方の手で、ぽん、とこちらの肩を軽く叩いてくる。思いがけなく温かい手のおかげで、すうっと気持ちが凪いだ。そして、ようやく口許に笑みめいたものを浮かべられるようになる。
「……ありがとう」
 やっとお礼が言えた。館岡は「いいってことよ」と照れ臭そうにつぶやき、店員が戻って来た有人レジへと向かう。平川もセルフレジで会計を済ませ、流れでそのまま、共に肩を並べて店外へと出る。

(続く)

pixivにアップしているものと同じです。
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