科学小説「月からの手紙」35話
科学小説「月からの手紙」35話 月からの手紙
美濃良治という青年を忘れることができない。
月探査の歴史上、2026年にシャクルトンで起こった宇宙服の生命維持装置事故、虹の入江で2031年に起こった氷層落盤事故以来の大きな事故に見舞われた青年だ。一度は聞いたことがあるかもしれない。
2040年12月のあの事故から2年ほどだったある日、確か5月だったと思う。月と地球を結ぶ公開テレビインタビューの席上、彼は永年契約で月に派遣されていたことを告白していた。
通常、中国政府は半年から2年までの契約で技術者や科学者を月に派遣する。そうした通常枠とは別に「永年契約」というわずかな枠が存在する。永年とはいっても月に5年以上滞在し業務をこなし続ける、という契約である。報酬は2割ほど高く設定されているのは、人員輸送費用や訓練に要する時間を削減できるためだ。2年以上勤務すれば、半年毎に3週間の地球帰還休暇を取得することもできる。
私はその放送を見ていて、彼が原因不明の拘束型心筋症という難病であることを初めて知った。有効な治療法のないこの病気を抱えながら、心臓に負担がかかりにくい月で、残る生涯を送る決心をしたのだという。
やがて、抗血栓性や生体適合性を薬剤で調整し、安定な機能を15年以上にわたって維持できる人工心臓が出現したが、そのときにはもはや彼の心臓には地球に戻って手術を受ける力が無かった。
私は、月にいる彼と個人的にメッセージをやりとりするようになった。初めの頃は電子メールを使っていたが、私の希望から、昔ながらの手紙を使うようになった。いま、私のもとには彼からの手紙が大切に保存してある。月から届く手紙を手にし、彼独特の字体による、ときに英文が混じる中国文を読むことは、私の数少ない楽しみとなっていた。
2042年9月16日付けの手紙にはこう書いてあった。
「李船長(彼は私のことをいつもそう呼んでいた)、私は地球にもどる間の肉体的ストレスに耐えられるよう4日間にわたり仮死状態におくことを考えています。心臓に負担をかけずに地球へ帰還するにはそれしかないそうです。
こちらの医療センターでは、心臓手術のための設備が十分ではないこと、テレプレゼンス手術も事実上不可能なことから対処できないそうです。地球の医師にセンサー情報が伝わり、医師によるコントロール信号が月の手術機器に伝わるまで2秒以上もかかるというのは、とくに心臓手術では致命的だそうです。
低温食塩水を徐々に体内に注入しながら血液を抜き取ります。
組織に供給される酸素量を低下させます。意識も心拍も失い、呼吸もしなくなります。
地球上では臓器移植など、緊急医療現場を中心に広く使用されている技術ですが、月ではまだ事例がありません。人間が仮死状態に入れるのか疑問に思うかもしれませんが、自然災害においても人間が無酸素状態に数時間以上も持ちこたえられた事例がいくつもあるそうです。火星有人飛行のための仮死状態の研究も進められていると聞いています。
放置すれば、私の心臓はあと2年くらいがせいぜいだそうです。いずれにせよ、死の恐怖と再び闘わなければなりません。なにもしないで死を待つよりも、少しでも希望のある闘いに賭けてみようと思うのです。
李船長は、『もし、何も希望が見えなくなったらシャクルトンを読みなさい』と手紙に書かれていましたね。いままで地球物理学者のシャクルトンかと思っていましたが、20世紀初頭に南極横断に挑んだ人物であることをそのとき初めて知りました。
図書室で、何度読み返されたか分からないようなシャクルトンの本を見つけました。表紙の裏には、にじんだ字で「ジェイムズ・ヴィンセント・タイラー」とありました... 」
私もその後、重い心臓病にかかり、手術を2度受けた。30年前では想像もつかないような素晴らしい人工心臓を得て、今も生きながらえている。 その人工心臓の寿命が来年にはやってくる。医師は最新の人工心臓と交換することを勧めているが、さすがに82歳の体に無理強いはしないそうだ。
軍人として模範を示せたかどうかはわからないが、多くの人命を救う努力はしてきたつもりだ。そして、ヘリウム3が地球環境を救うことになったことも、月開発にかかわった者として誇りに思うところだ。悔いのない人生だったと思う。
つくづく思うが、月は不思議な存在だ。
ヘリウム3がなければ地球や人類はどうなっていただろう。
ひとつだけ、心残りがある。
来年の秋には、アリスタルコスの本格的な地底探査が始まるそうだ。その成果が出る頃には、私はもうこの世にはいないかもしれない。
月の深淵にはいったい何があるのか、良治もとても知りたがっていた。
真実を知ることなく、この世を去らなければならないのはとても残念だ。
宇宙背景放射や円周率に見つかったような、誰もが驚くような発見がある気がしてならない。
2072年9月27日 月の映える九寨溝が見える病室にて
『麗しき虹の入江』最終追補記 李肇星
----------------------------------------------------
参考文献
仮死状態の医療利用(M.B.ロス/T.ニスタル 日経サイエンス 2005年9月号)