#111 一瞬の夏 やすみ
それは東海道にある沼津市の旅館。旅館の前が駐車場で、いつでも部屋から車の荷物を取り出せ、そのせいか玄関先にはサンダルもおいてある。食事の提供はないので、近くにある24時間営業のスーパーで購入して食事の準備ができる。自分のすきなものが時間に関係なく食べられる自由度がある。
お風呂場はひろくて清潔で熱い湯船が夏の暑さになれた素肌にしみて、湯上りに購入したお寿司とビールを飲んでクーラーにあたりつつ布団をかぶってテレビを見ているうちに寝落ちした。
夏休みは仕事の中の組織化した夏休みではない。それは、自分がすべて解放されてこそなのだ。この組織やしがらみとの縁切りができそうでできない、という時間/仕事柄続いた。ながらく仕事をしていると休暇自体が休む仕事のようになり、無理やりに海外やリゾートホテルに行こうとする。それは労働の中に組み込まれた休暇というシステムなのだ。労働力び再生産または逃避だ。
そういうのが大嫌いな私は、小学生時代にすごしていた夏やすみの郷愁がどこかにある。蟻の行列をみつめて金魚を飼育し、鳳仙花に群がる蜂の響きを聴き、一人で金魚をみつめて過ごした貧相な庭がある。この旅館で、ゴロンと畳の上に寝転んだとき、一瞬だがその夏やすみがおとずれた。
ただそれだけのことが、なぜできなくなったのか。そういうことがが相当に重い課題と感じられる。さてこの夏、小学生時代の夏の気温とは段違いに暑く なっている。夏やすみをすごすにはあまりに気温が強烈すぎて、盆のころの秋の気配も遠い記憶をたどることになる。
一瞬の夏、ようやっと感じることができた。