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#112 おせっかいの流儀
ある近所のおうちに娘さんがいる。大学を途中で辞めて以来、自宅で庭仕事をしたり、畑で野菜をつくったりして、はた目からは悠々自適の生活しているように見える。時々、近所を歩いたり小さな山に登っている。
大学を辞めた理由は、自分はまじめに考えて入学したのに、周りの学生があまりにまじめでないこと、つまり学生が遊んでいるとうことらしい。娘さんにはそういう大学の雰囲気がなじめなくて、その後いくつかの派遣にも行くが、どうやら人間関係もあったのか、いまは自宅ですごしている。
先日のこと、夏の暑い日差しの昼下がりに、その娘さんは、近所の空き家の玄関さきにある生い茂った雑草を抜いたり、近所を一周してゴミを拾ったりしている。暑さよけの麦わら帽子をかぶり、手には軍手と火ばさみ、日焼けよけの長袖姿。
仕事をして給料をもらい生活する生活がある。その生活で近所のゴミひらいは、半ば強制のボランティアでないとしない。近所の様子までかまっている時間がそれほどない。すくなくともあえて自分からしようという人はめったにいない。他人の家の茂った雑草を引き抜く時間より、自分の家の子育てや家事が優先されて当然だろう。これは私事化という。
一方、それにも関わらず、気づいて道端を掃除するという流儀もある。公共性である。昔は、朝夕にそういうおばあさんが、いた。もちろん公共性などという言葉は意識していない。
昔と言ってもそう遠い過去ではないが、この娘さんのような時間と空間があって、なんとなく近所にすんでいて、大袈裟にいえば公共の世界を自由気ままにつくって、誰からも称賛もないまま生きている人が、そこここに居たような気がする。それが世間であった。
そういう人は、ついでに近所のゴミを拾ったり、畦道の草を刈ってみたり、適当に自分の周辺環境におせっかいをかけていた。そのおせっかいは人にかけていない分、わからないし、迷惑をかけるわけでもない。そのおせっかいはだれにでもなく自分にかもしれないし、世の中らしきものに対してのおせっかい、かもしれない。
それをみて、まわりがどのように感じ、考えるかというのは、周囲の問題なのだ。周囲はそういうものに注意をはらわなくなった。
道がきれいに掃いてあったりするのは、そういうおせっかいが、特定の人とではなく、自分の周りの誰でもない誰かという匿名の人たちとできることなのだ。
それを道徳というのか、礼儀作法というのか。自分とまわりとの関係のおせっかいなお作法といえる。このお作法があまりみれなくなった。