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#110【放送後記】第21回ふりかけラジオハイデッカー「存在と時間」その実存ってなんだ?

8月24日に第21回ふりかけラジオを放送しました。今回の放送はこちらからお聴きいただけます。youtubeは第22回とありますが21回です。すいません。

このラジオは兵庫県丹波市にある、地元ラジオ局・805たんば、で放送しています。第二第四土曜日、午後9時30分から28分間の放送です。キャストは大学3回生のカナル君、地元在民のとみん、です。
ここ数回、哲学サーフィンです。初心者へのコーチは、同志社大学大学院で哲学(フランス哲学)専攻の河嶋君です。


今回はハイデッカー。「存在と時間」。結論は、存在とは時間である、です。このラジオを始めたときに、カナル君と私・とみんで話したのは、大学生の彼は未来から、現職教師の私は過去から、それが交差点でであう。過去の未来の交差点です、というものでした。

今回は、存在に焦点をあてています。ハイデッカー以前の西洋哲学は、存在を自明のものとして扱い、定義できないとしていました、特に、中世キリスト教の正統性を求めたアウグスティヌス(4C)、神の存在証明に腐心するなかで疑いようのない神を定立します。

こうなると、存在する神と人間の関係あらかじめ、存在=ある者、となります。カントはその認識問題を一定の線分を引いて、神の問題を切り離します。かれは人と物との関係を認識の問題として扱います。対象に対する人間の認識の問題です。

そこでは、花があるとして、それは花があるからではなく、人が花と認識するからだといいます、これをコペルニクス転回という、月が回っているのではなくて、地球が回ってるんだ、という、認識の大転換です。

ちなみに、ユング心理学の河合隼雄先生は、存在について、私が存在しているのではなくて、存在が私している、存在が花している、という存在の問題を話されています。こうなると根源的に存在とはなにか?となりはしないでしょうか?

ハイデッカーは、周囲にある人やモノ、これを存在するもの、という意味で存在者という。その存在者のなかで存在をといことができるのが存在する人=現存在、です。この現存在の存在根拠をあきらかにしようとしたのでしょう。

以下、河嶋さんの言語の引用をしましょう。

『存在論の歴史は長く、ソクラテス以前からすでに論じられていますが、学問として体系立てたのはアリストテレスです。その後、中世ではトマスアクィナスによって神の問題と結びつけられて論じられ、最高の概念として位置付けられますが、同時に自明な概念とされ、問いの対象から外れます。その後近代ではその対象がどうして存在するのかではなく、どうしてそのように認識されるのが問題になります。存在が再び問われるのはハイデガーを待たなくてはなりません。そこでハイデガーは存在を問うために存在を有するもの(存在者)の中でも、存在を問うことができる能力を持った存在者、すなわち人間を現存在と名付けてこれを分析対象にします。現存在の有する存在は実存と呼ばれます。das Mann は存在を問うことを忘れて生きている人間のことを指しています。』


さて、こういう議論は、このくそ忙しい世の中で一体だれが傾聴するのでしょうか?という疑問を持ちつつ、ラジオをやっているのですが、今回、この放送をきいて、ビジネスチャンスを感じた方、是非、放送後のご感想をお待ちします。

大学時代の青白い思想論をぶつけることができているでしょうか?大学生の皆さんどうですか?こういう時間は意図して持たないともったいない。同時に、それが、大学の内部で終結するのももったいない。

ここから余談。実はハイデッカーは当時の東北帝国大学の九鬼周造から日本に来るように要望され、当時ドイツ留学中の三木清・羽仁五郎らが接触したようですが、結局、一番弟子のレービットがユダヤ人ということでドイツを忌避することもあって来日し、東北大学の哲学の基盤をつくる。京都大学の西田学派のようなものでしょう。こういういい意味での学派は学風がいまや風前のと灯になりつつあることが怖いなというきがします。

だれか、ハイデッカーと経済ビジネス、という本でも書いてみませんか?


「ふりかけラジオ」は隔週(毎月第2・4)土曜日の21時30分から、FM805たんばに乗せてお届けしています。
次回は、2024年9月14日の21時30分からの放送です。
FM805たんばの受信地域外の方も、こちらからインターネットサイマルラジオでお聴きいただけます。
それでは、また次回の放送でお会いしましょう。おやすみなさい。