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#90 一問一答完全版(かなるver.)

先日放送した第3回ふりかけラジオの一問一答完全版です。今回は、高松(ラジオネーム とみん)が、かなる君への質問の中で、とみんアンテナに引っ掛かったものにスポットを当ててお届けしていきます。最初、とみん が160問作成して「はい・いいえ」で答えてもらいました。その160問を、双方で選択してフォーカスした質問が以下になります。アンテナとしては、若い世代の考え、これからの時代をどう生きるかという、大袈裟なものですが、結局、日常の生活の四方山話なのです。

第3回ふりかけラジオはこちらから。

第3回ふりかけラジオの放送後記はこちらから。

Q.
中高の生徒会の経験から学んだり、考えたりしたことはなんでしょう。それらと将来との関係性は?

A.
今の僕の仕事に関する基本的な姿勢は、中学生の頃に生徒会に関わる中で培われたと言っても過言ではないと思っている。当時は附属中学校自体が大きな転換点の中で、「描いていた青写真は崩れ去った」ほどに課外活動の時間は短縮された。その影響で、朝も放課後も業間休みも、昼食の時間さえも生徒会室に籠りきりで仕事をしていた時期が多かった。その影響で、クラスメイトとの間に心理的な距離を感じることも多かったが、このことは当時の担任が、生徒会長着任直後に三者面談か何かの折に忠告してくれた。それに加え、「忙しい」を言い訳にしないことや、役員希望が叶わなかった人への配慮の大切さ、今までの当り前を考え直すことなど、様々なことを教えてくれた。附属は全校480人のうち、狭義での役員は25人と枠が少ない。全ての希望に沿えるわけではないが、その中でも可能な限りの案を提示することや、書類の仕立て方、文章力など様々な面をきめ細かなサポートの中で経験させてくれた。
高校は、中学での基本的な姿勢はあまり変わらなかったと思うが、仕事の内容や幅がより大規模、社会的、政治的になっていったと思っている。烏滸がましいが、進学校で、伝統校で、深志卒の教員が多く、保守的で、「自治の大旗翻」していた高校だからこその経験が多かったし、それに伴って考えることも多々あった。とりわけ、自治に関しては大学の講義の中で次のような文章も書いていた。

住民自治というように、「自治」という言葉は民主主義の社会では比較的重要な概念として用いられていると感じる。私の出身高校も「自治の校風」を掲げ(どちらかというと標榜していたのかもしれない)、様々な活動や行事を生徒主体で行っていた。私も生徒会に関わる中で、自治の効果的運用や維持のためには、関わる人にある程度の理性や感性、そして様々な方面との対話や信頼関係の構築が重要だということを感じた。これらの要素がどれか一つでも欠けたり、疎かになったりした場合には、自治はすぐに瓦解するし、一度瓦解してしまえばそれを修復することは極めて困難だと思っている。自治と言えば聞こえは良いが、ある種の自己犠牲をも厭わない人々の上でこそはじめて成立しうる諸刃の剣であることを忘れてしまえば、未来はないのではないかと考えている。

とある大学の講義のレスポンスペーパーへの佳成の回答から。

これらの経験や学んだこと、考えたことなどがどのようにして将来に関係していくのか、具体的なイメージはできていないのだが、未来の自分の精神世界には間違いなく根差している思考や経験であるように思っている。

Q.
性格は「真面目ではない」っって答えたのが意外でした。真面目だとおもってたんですが、自分の性格や個性について考えることは?

A.
自己肯定感は高いけど、自己評価は低い。所詮は今まで色々なことを「させてもらっただけ」の人だと思っている。人を引っ張る立場、人を支える立場のどちらも経験したが、頑張る誰かをサポートすることの方が向いている気がした。更に欲を言えば、頑張る誰かを支えるために、組織を引っ張っていくことが一番理想的なポジションな気がしている。
個性や性格についての自分なりのキーワードをいくつか挙げるとすれば、不真面目、義理堅い、お人好し。

Q.
充実している時間や、ブームなどはある?

A.
特筆するほどのものはないと思う。しかし、中学の頃から大好きで、ずっと夢見ていた正解のない問いに大量の時間を費やせる環境に来られたことはとても幸せなことだと感じている。

Q.
神社には行くけれど、神は信じていない、ってどういうこと?

A.
神様は見ている、というような自律、自己反省のための鏡として神を想定することは多い。しかし、宗教的な神はあまり信じないようにしている。信じていないくせに神社仏閣に参拝したり、お墓参りに赴いたりするのは、そこが非日常の空間だからだと思う。鏡としての神や先祖に手を合わせて近況を報告したり、願い事をしたりすることで、ただでさえ怠惰な自分の精神を少しでも引き締めたいのだと思う。
神を信じないことはもしかすると罰当たりなことなのかもしれないが、それでも個人的に神社仏閣やお墓に行く必要性を感じているので行っている。
とりわけお墓に関しては、顔を知っているか否かに関わらず、先立ってしまった故人と、残された僕という関係の中で、現世にいる僕が精神的な区切りをつけるため、故人がいないことを認識するため、現世での残りの人生を覚悟するために行っているという意味合いは強いのではないかと思う。

  • 以上です。自分で編集していて恥ずかしくなってしまうようなものばかりでしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

  • 次回以降のふりかけラジオもお楽しみに!(かなる