非日常という日常
数日前にふと目に入ったインスタの投稿は
かつてよく足を運んでいたカフェからの告知でした。
「セキネユカさんの世界観を、五感で楽しんで頂けたらと思います」
写真の美しい女性の佇まいにドキリとして、アクセスする。
セキネユカさん。 https://www.instagram.com/sekineyuka_/
セキネのお茶会
『温度と湿感の移ろい』 2021年10月30日(土)。場所は静岡市内のカフェ、ETHICUS(エートス)Euphrainoo さん。 https://www.ethicus.jp
予約限定4名(約1時間半)
お品書き 4種類のお菓子 と 音楽 と ことば と 空間
用意されたお菓子の「温度と湿感」が記憶の琴線に触れて 私は時間軸を失う。今なのか、過去なのか、わからない状態になる。それが、「日常」から解き放たれた、ということかもしれない。
非日常を愉しむこと。それは既にユカさんが意図したものであり、「まんまと」その世界に私は引き込まれてゆく、ユカさんから紡ぎ出される言葉にいざなわれながら、まんまと...
冷たいおいしさと、温かいおいしさを、味わう。そしてただ、感じる。
ひんやりとしたシャーベットや梨は、ちょうどたった今感じている、「人と初めて会ったばかり」の緊張感と同じような、覚醒した感覚をもたらす。「おいしいな」と感じながらも、なんとなく右脳に届かない。
「おいしい」を私は左脳で冷静に分析しているのだ。冷たさ、甘さ、みずみずしさ、鼻に抜ける香りのかぐわしさを。
ところが、かすかな温かさを口の中に感じ始めた途端、変わっていくのだ、体が。
ユカさんの「仕業(しわざ)」で、徐々にお菓子から感じられる温度が上がってゆく。
それと共に、体が緩んでゆく。 安心感に包まれる。
温かさに湿り気が伴って、ぬくもりになる。まるで人のぬくもり。温かさは記憶。人との記憶に結びついてゆく。
温菓子「思い出」によって、私の体は完全に開かれる。
アツアツ、ふかし立ての湯気がたちのぼる。それを目で追う。
恐る恐る指先で触れて、皿に取り出しながら、熱さを感じる。
そんなことをしているうちに、おまんじゅうの生地が「ぬくもり」程度に冷めても、中のあんこはしっかりと熱い。でも、刺々しい熱さは無い。これがセイロが成せる技。
口の中で唾液と混ざり合いながら、あんこの熱さが徐々に「ぬくもり」に変化してゆく。
「おいしい。」 思わず口からこぼれる。目を合わせ、ユカさんとおいしい気持ちでつながる。
思わず言葉がこぼれ出てしまう、ということを、私はまるで初めてのことのように体験する。
体と心がゆるんで 初めて 本音がこぼれ出てしまうのだ、人間は。
冷から温へ。そして、最後にまた、冷へ。
そうやって最後にユカさんは私たちを現実世界、『日常』へと引き戻す伏線を作る、驚きとともに。
〆に味わったドリップコーヒーはエチオピアのゲイシャ。
淹れたてのコーヒーに完全に目が覚めて、時間軸のない非日常を味わった余韻に浸る。ユカさんから紡ぎ出される言の葉に私は絶えず頷いている。
『当たり前』とは何か、と深く深くに繋がろうとする日々によってユカさんから生まれたお菓子と物語。
人は、狭間(はざま)に生きるもの
冷を知らずして、温は語れず
緊張を知らずして、弛緩を知るよしもなし
建前の自覚なしに、本音を語れることもなく。