ここ最近で、「おいしい!」と思わず口に出たような瞬間、ありましたか?
写真の餃子、浜松餃子です。
静岡県浜松市は、餃子の消費量で毎年、宇都宮市と1、2位を争うほど餃子で有名な街です。
食べてみたお味は、、
正直言って、「自分の中にあるベストオブザギョーザ」を超えませんでした...。
ところが、帰り道に私の口から出てきた言葉は、「おいしかったなあ」。
しかも、何度も。
不思議でしょう?
自分でも不思議でした。
息を吐くように、ふわっと出てきたものだから。
食べたのは先週末の12月4日土曜日。
浜松城公園で養蜂家が蜂蜜を売る、と聞いて朝イチで行ったついででした。「浜松行ったら餃子でしょ」ということで。
蜂蜜の用事が済んだあと、その場でGoogleで探して
電話でアレルゲンを含むかどうかの確認をしてから
まだ、開店1時間前だったのだけれどそのまま向かいました。
到着してびっくりです。
開店40分前ぐらいだったのにのに、もう既に列ができていました。
初めてだから勝手が分からず、
前の人の注文の様子を聞いたり、あれこれ相談しながらメニューを決めて
2回転目にして店内に入れて、
座ってからもしばし待たされ。
朝から動き回っていてお腹ぺこぺこで
やっといただけたのは、ふつうの餃子だったけれど
帰り道、『あー、おいしかった』その言葉しか出てこない。
「あれが、おいしかった??もう2回目はない」と、後ろから聞こえてくる辛辣な言葉をサラッと流し、
ハンドル握りながら『うん、おいしかったなあ』と私はつぶやくのでした。
味は確かに特別驚くほど美味しくはなかった。ごくごく普通の美味しさの餃子でした。
それでも、おいしかったなあ、って心から思えたのです。
なぜでしょう。
おいしいって、そもそもどういう意味があるのでしょう。
広辞苑によると、
①飲食物の味がよい。うまい。美味(びみ)だ。
という意味が、第1番に上がってきます。反対語は「まずい」
②〔俗〕自分にとって都合がいい。うまい。好都合な。
こちらは、「おいしい話に飛びつく」などのように使います。
おいしい、とは、かなり主観的なものですよね。誰かがおいしいと言っても、食べてみたらそんなにおいしく感じないこともあります。
じゃあ、味はごくごく普通だと感じたはずなのに、どうして私は帰り道に何度もしみじみと「おいしかったなあ」と言ったのかな、と不思議に思うのです。
それで、あの「おいしい」という言葉が溢れてきた時の心を深く深く掘り下げてみました。そして、気づきました。
おいしい、には、楽しいよ、嬉しいよ、ありがとう、幸せ、よかった…、そんな意味合いが含まれることもあるってことを。
ほら、こうも言うじゃないですか、「何を食べるか、というより、誰と食べるのか、だ」と。
簡単に言うとそういうことです。でも、「誰と食べるか」だけではなく、もっともっといろんなことが複雑に絡み合っています。
あの時、ああやって君や君達と食べた時間。
例えばあの時の、親切な電話口にホッとしたこととか。
料理を待ちながら眺めた、働く店員さんの様子とか。
厨房の様子とか。
隣のテーブルの話に耳をそば立てたり、何を頼んだのか、チラリと見てみたり。
何かを見ているうちに、この人はどこからきたんだろう、仕込みは何時からするんだろう、例えばそんな見えない時間や物にも想いをはせていく。
もっと時間をさかのぼってみると、
自分がここにこうしている、そこに至るまでには、数えきれない出来事があったわけで。
そんな、瞬間瞬間のちょっとずつが記憶に幾重にも重なっていて
クライマックスに『おいしかったなあ』という言葉になって口をついて出てくる。
「おいしい」っていう言葉には、
楽しいよ、嬉しいよ、ありがとう、幸せ、よかった…。それを言った人にそんな思いが隠れているかもしれないのです。
場合によっては、お疲れ様、ほっとしたよ、無事でよかった、出会えてよかった、大好き...
そんな意味さえも含む時があるかもしれない。ないかもしれない。
そんな風に自分の「おいしい」や、誰かの「おいしい」の向こう側を受け止められたら、「おいしいね」「おいしかったね」って言い合えたら、
記憶に忘れられない大切な思い出として人生に刻まれていく気がするのです。