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家電カメラに用はない

数日前のトレンドに『#頑張れNikon 』が上がっていると伴侶が教えてくれました。彼女は撮られる仕事をしてはいますが、対峙して撮影してもらっている時のカメラというよりは、いただいた写真のカメラとしての評価には厳しいものを持っています。それは消費者としては純粋な意見。肌色が綺麗だとか緑色が強いだとか・・・。

そんなうちの伴侶も心配するこれら一連のニコン騒動、実は今に始まったわけではなくそれこそ毎度のこと。今回発表された業績もいつも通りのもので昨年11月の人員削減も毎年のこととなっています。ただ今回の「カメラ事業をやめてしまうのでは?」という話が出てきた背景には今年1月のオリンパスのカメラ事業身売りが実際に行われてしまったということが大きく影響をしているのだろうと思います。

ただこの業績のことより、オリンパス身売りよりもニコンに関してずっと気になっていたことがありました。それは2018年に登場したニコンのミラーレスカメラに名付けられた名前、Z7やZ6などの『Z』。Zとはアルファベットの最後、もうそれ以上(以降)はないという理由で『最後』を表す意味合いによく使われていますので、ニコンヨーロッパ、ナイコンアメリカでZを巡る反対意見が出なかったものだと残念に思っておりました。そこに今回のニコンカメラ騒動が待っていたかのように重なりました。

F6はニコンのフィルムカメラ最後の数字であり、現在のニコンのデジタル一眼レフの名前はD6。しかもニコンにはこれら以前から数字にまつわる都市伝説も存在しています。それはフィルム時代より続く「偶数」の”愚数”話。

これまでニコンが出してきた偶数の機材は何かしら不具合があったりと奇数に比べて売り上げにも悪影響を続けてきました。しかもニコンの最高級フラッグシップは『6』より増えた事が歴史上ありません。つまりはニコンミラーレス、Zの6とは「史上最悪を持ってしてすでに終わり」?!

その『6』に対しての反動なのか?それら噂話を自ら払拭すべくなのか⁈ ニコンのミラーレスは旧ミノルタのエースナンバーでもある『7』をミラーレスではいきなり持ってきております。そんなこともあって想像は膨らむばかり。そういえばキヤノン7なるカメラも昔はありましたが、本家ミノルタを引き継いだはずのソニーはキヤノンに習い後継機にMark II, IIIを使い始め、ニコンが陥った数字の使用配列限界によるごちゃごちゃさ、「何が上位機種なのか?わからない」ということを見越して避けて、事もあろうについには『1』に辿り着くようです。

これまでキヤノンが『1』を使い続けてきた反面、ニコンはフラッグシップモデルの新しい最高機種番号はオリンピックに合わせて1つずつ上がってきました。D5はリオデジャネイロ五輪用だったし、D6は東京五輪に合わせられたもの。ちょうど私がニコンをオリンピックで使わせていただいたものはD4のロンドン仕様でした。

毎大会オリンピック競技大会後、帰国後にはオリンピック報告会・慰安会を開いてくれています。大きな部屋に大きなモニター、最新ニコン機材を使用しての問題点や良かった点を発表していくというもの。そこには開発の方々、営業の方々のみならずニコンの偉いさんまでもが出席しておりました。ロンドン報告会・慰安会に招いていただいた私、その席上での話です。ランダムに座った順に司会者に指名され、スクリーンに映し出された自らが撮影した五輪写真とともにカメラ品評をしていきます。私の番になると司会者は「石島さんは長く時間取りますので最後に」と飛ばされ、新聞社カメや大手エージェントなど一通り終わったあとに私の出番でした。

「皆さんのお話を聴かせて頂きましたが、それらの問題点はキヤノンのカメラに替えて使ったら即解決します」そう切り出しました。

新聞社の社カメさんの話「ハンマー投げ撮影にはゲージ(選手を取り囲んでいる安全枠)にピントを置きピンで合わせて撮影するという到底プロとは思えない話を笑顔で聴いていた偉いさん達も急に顔色が変わりました。私を良く知る司会者もしてやったりだったのでしょうか逆に司会者だけは笑顔に。この司会者はダメなものはダメと言える方、下手な写真は媚びるではなく下手と言える方でした。

「ニコンさんがキヤノンを追いかけていたらいつになっても越えるどころか追いつく事すらできないですよ」語気を強くしながら私は続けます。
「そうではなくニコンはニコンの道を進まなくてはダメだと思います。瞳の中の心、感情を撮れるカメラを作っていかなければならないのではないですか?」。これによってニコンの社員の半分は私を嫌いになったとのこと。部屋を替えて続く慰安懇親会でも司会者に壇上に上げられニコン愛を熱弁させていただきました。この司会を勤められた方がいたからこそニコンを使いました。「ダメなものをダメと言えるニコン異端児」もすでに退職をなされております。そしてニコンといえば後藤哲朗さん。日本光学には異端児が多く面白い会社でした。すでに皆さん定年退職でいなくなられてしまわれました。

「媚を売るような態度をとらずにカメラ売れ」と今のカメラ業界の方々に言いたい。下手な奴は下手と言ってあげるのは期待しての優しさですと。

「良い写真とはなんですか?」という質問をよくしていただきます。それに対しての答えはいつも同じで「気に入った写真をプリントして日頃良く目にするような場所に飾っておいてください。ずっと飾っておいて飽きが来ない写真だったらそれは良い写真です。そしてその『良い』写真は日を追うごとに新しい発見が見えてきたりもします」と答えています。

カメラがなんでもやっくれる時代、しかし良い写真はカメラのAIでは撮影してくれません。撮影された写真をフォトショップやアプリで加工したどころで良い写真に変わることもありません。カメラメーカーさんも含めユーザーは写真を撮影しているのはカメラではなく「ひと」であるということを今一度原点に戻って考えて欲しい。ひとは感情を持ち、喜怒哀楽があり、そして心模様は常に変化を続けている。

カメラの歴史を見返すと栄枯盛衰の歴史そのものです。ミノルタやコンタックス、ローライ、ヤシカ、マミヤ、リコー、挙げ句の果てに京セラなど名機や珍機を生み出したカメラメーカーも数多く現れては消えていきました。戦後それは頭文字でAからZの全てのアルファベットがカメラメーカー名で使用されたくらいでした。アイレス写真機製作所という東京の新宿西大久保にあった会社のカメラをちょうど今個人的に修理しています。会社自体が無くなっても名機は残り受け継がれています。

総合商社になってしまったキヤノン、金融会社のソニーはさておき、医療機器が好調だったオリンパスも売れないカメラに見切りをつけてしまったことから今年2021年は始まりました。肝心のニコンといえば日本光学、それは潜水艦の潜望鏡から始まったと聞きます。個人的にメガネのレンズはニコンですが、今では半導体製造装置の会社なのだそうです。世界的に半導体事業といえばすでにかなり前に終わっています。そこでも踏ん張ってきてくれたのがニコンなのです。

写真学校で使用していた最初の一眼レフカメラのオリンパスOM-1が壊れ、カメラのドイで買い替えたのがニコンF3でした。19歳で写真を撮影することが仕事になり、2台のF3を同時に使っていました。ラジコンの音が外でしていた地方の体育館、撮影中同時に2台とも動かなくなってしまったのが20歳を少し過ぎた時でした。昔のプロの機材は身を削ってまでも最後の最後まで最低限として写真を撮ることが出来るようにできています。当時のカメラに備えられていた緊急機械式シャッター1/90秒で仕事は乗り切れました。帰京後に当時新宿にあったニコンプロフェッショナルサービス、NPSに持っていくと受付の方はその2台をバックヤードに持っていき、数分ののちに2台を持って戻ってきました。

「症状がでないのでまた同じ状態になったら持って来てください」

そのまま返却されてしまったのでした。そのNPSの帰り道、新宿の中古カメラ屋さんでそのニコンF3を下取りに出しCanon F-1を購入。こうして1回目のシステムチェンジの経験はNPSで受付してくれたニコン社員への不信感からでした。新聞社などの会社に手厚いニコン、フリーランスはキヤノンという扱いの違いもそこにはありました。写真撮影を生業にしてからというもの機材に代金を払わなかった年のない35年です。

ニコンは1917年日本光學工業株式會社として始まり、東京光学機械(トプコン)とともに「陸のトーコー(陸軍)、海のニッコー(海軍)」として名を馳せたニコン。高千穂光学工業(オリンパス)、榎本光学精機(富士フイルム)など現在の写真業界は戦中の軍事光学産業から始まっていました。キヤノンの創世記カメラを製作していたのもニコン。日本のカメラの歴史とともに歩んできたニコン、クラシックカメラが物語る歴史にはロマンがあります。近年のオートフォーカスに移行した時代もそうでした。キヤノンは新たにマウント径大きくして臨みましたがニコンは昔からのレンズも資産として使えるようにしながら同じサイズのマウントを維持してやってきました。しかしそのことがのちに少なからず足枷になっていたのは否定できません。経済をまわすにはスクラップ&ビルドが重要で、マウント変更はようやくミラーレスではようやく新たな大口径マウントを採用したのですが、時はすでに遅かったようです。2007年に久しぶりにニコンを使い始めたのがD3、2009年に発売されたD3sは「D4にしてもよかったのですが、D3ユーザーがクライアントに古い機材を使っている」と言われる、思われることを避けるためと説明がありました。それこそがニコンのユーザーに対しての思想でした。

2014年ニコンが本社を品川インターシティに移しました。その施設はソニーが使っていたそのもの、受付の場所さえも同じに何の変更もなく使用していました。ただソニー時代よりもセキュリティゾーンは減らされ、2015年の創業100周年を記念してのニコンミュージアムはソニーでは出来ない新設。そこで勝手に考えましたのはソニーのレンズ部門としてのニコンの生き残り。もともとニコンのセンサーはソニー製品、ソニーのレンズはタムロン製。でもソニーは吸収したのちに人材を排除する企業、そんなところにニコンカメラ部門が移管するのは正直喜べるものではありません。

第2次世界大戦後に戦勝国であったソビエト連邦はドイツのカメラ技術を強盗よろしく持ち帰りましたが成功はせずに模造品止まりでおわりました。2017年ハッセルブラッドを買い取ったのは中国企業DJIでしたがこちらも上手くいっているとは言えません。

名門フェラーリは時代とともにいろいろな企業の傘下に入ったりしながら生き残り続け「F-1でレースを続けるため」に車作りを手作業で続け販売している憧れのブランド。名門ライカもいろいろな経緯を経てそれこそカメラやレンズを造らない売らない時期までありながらもウェツラーに大きな社屋を造り、ここがまた憧れの場所として現在は安定しています。

ニコンがこれから進む方向、方針によっては誰もが持ちたいと所有意欲を掻き立てられるようなブランドとして再生し新しい世界を切り開いてくれるのではないでしょうか。しかし今のままや立て直しを名目として銀行に従ったりだったり、カメラ部門の買収、吸収されるようならばそれこそ昔ニコンというメーカーが2021年まであって・・・となってしまうことでしょう。

まっ、なるようになるわさNikon。

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石島 道康 / Michi ISHIJIMA
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