火神火産霊の世界ーー平田篤胤の「火の神学」

火神火産霊の世界
 日本神話の火神、火産霊(ホムスヒ)=ホムスヒ(別名カグツチともいう)はイサナキとイサナミの息子神である。イサナキとイサナミは天浮橋から淤能碁呂嶋に降臨して天御柱を立て、八尋殿を築く。イサナミはそこで国を生み、さらに国土の神を生むが、ホムスヒはその最後に近く生まれて、母イサナミのミホトを焼いて大火傷を負わせ、イサナミを死に追い込んだ。イサナミはその苦悶の中でのたうち反吐を吐き糞尿を垂れ流したが、結局、死んで黄泉国にいってしまう。そういう妻の死を目の前でみて逆上したイサナキは長大な剣を振るってホムスヒの首を刎ね飛ばし、ホムスヒの血を天と地に飛び散らせた。
 平田はこれによって世界に火が広まったのだという。つまり『霊の真柱』には「火はこの時に、伊邪那美命の始て生み坐せる物にて、是より前に火は有ることなし」とあり、『古史伝』も「火は此時に伊邪那美命の始めて生坐る物にて、是より前に火は有ることなし」としている(一一、230頁)。これはアマテラスの誕生以前に太陽はなかったという本居の論理と同じことである。
 まず、ホムスヒの血は大地にあふれた。イサナキの長剣の柄にたまった血は地上に落ちて闇淤加美(くらおかみ)神(靇神)という蛇靇の姿をした谷の水神というが(『古事記』。なお蛇靇は山椒魚のこととみられる。三宅和朗『古代の人々の心性と環境』二一七頁)、ホムスヒの遺骸は火山を中心とする山となったというから、その血は山から谷にあふれ、平地に広がった。『日本書紀』(第五段異書八)によると、そのとき「斬る血激ち灑ぎて、石礫・樹草を染」め、それが「草木・沙石、自づからに火を含む縁」となったという。地上の全面が石や森林・草原を含めてホムスヒの血に濡れたのであって、平田はだから草木を燃せば火がでるし、石の中には火花が宿るのだという。さらに平田篤胤は「実は物として火を含まぬ物なし」として硫黄や塩硝さらには海中のものなどさえ火気を含むことになったのだと説明している(『古史伝』一五段二七四・二七六頁)。イサナキの長剣の柄にたまった血は地上に落ちて闇淤加美(くらおかみ)神(靇神)という
 それにつけ加えておきたいのは、小人神の少名毘古那(スクナヒコナ)が薬となる硫黄の神であったことで、柳田国男の「燃ゆる土」という短文によると塵芥などの可燃性のものを含んだ燃えやすい「土」、あるいは泥炭などを「スクモ」というが(『定本柳田国男集』三〇巻、筑摩書房)、スクナとはこのスクモの「モ」を土という意味をもつ「ナ」に置き換えたもので、土中の火気・硫黄気をいうことである。「日の本のやまとの国を かみろぎの少彦名が 葦菅を殖え生ふしつつ 国固め造りけむより」(『続日本後紀』嘉祥二年三月条)といわれるように、そもそもスクナヒコナは葦菅を植えふやして「葦原中国」に土壌を固定する土壌神であった(参照保立二〇一五)。葦原中国の国作りはオホアナムチとスクナヒコナの二神が協力して行ったものであることはよく知られているが、『伊豆国風土記』によれば、この二人の神は「禁薬と湯泉の術」を始めた神であった。スクナヒコナが薬・硫黄の神であることと国作りの神であることは土壌のスクモ・硫黄気を通じて深く関係していたのである。そしてスクナヒコナの硫黄はホムスヒの血までさかのぼるのである。
 さらにホムスヒの血は高天原にまで飛んで、その世界を赤く染めた。『日本書紀』異書七には「その血、激越(たばし)りて、天八十河の中にある五百箇磐石(いはむら)を染む」とある。天の川の星の輝きもホムスヒの血によるものだという訳である。「五百箇磐石(いはむら)」というのは高天原が岩盤の世界であるという観念を示している。アマテラスが天石屋戸に籠もったというのも、本居は「石とはただ堅固をいう」(『古事記伝』七巻一五葉)とするが、天孫降臨神話においてニニギが乗って降ってきた「天の石位(いわくら)(磐座)」が火山噴火の際の巨大な火山岩をいうのと同じで(参照■■頁)、天蓋が岩でできているという観念を物語っている。なお契沖は「天」の枕詞である「ひさかた」は、天が久しく堅いことを示すとしたが、広畑輔雄は『万葉集』の「ひさかた」の用例の半分以上が「久堅」となっていることに着目し、また中国の古典『淮南子』や蓋天説・渾天説などの天文学説が天を堅い物体、石でできているとしたとすることの影響であると論じた(広畑「日本古典における神仙説および中国天文説の影響」)。
 そして、平田は、「日(太陽)」の光も、元はといえば、このホムスヒの血=火が寄りついたものとみた。先にふれたように、服部や平田は原始の混沌の中から軽い熱物質が浮き上がってルビーや水晶と比喩できるような透き通ったガランドウの「天」の球体ができたという宇宙生成論をとっていた。そして平田は、天まで飛んだホムスヒの血がこの天の球体に付着したことによって「天」の球体は太陽というにふさわしい輝きをえたのだという。右の■図は、それを説明した『霊の真柱』の一節の冒頭に掲げられたもので、円形に描かれた「日天」の右下に波のような形を描き、そこに小さな黒点がふされている。波のような模様は天の川で、黒点はその川原の石、「五百箇の磐石(いはむら)」だろう。平田は「火産霊神の血の天之安河原なる五百箇石村と化れる状」と説明している。こうして天の球体に火が飛びついて、天球はますます明るく燃え上がったというのである。
 なお、この図には「地」の頂点に「皇国(日本)」があり、そこから「泉(黄泉)」の世界に通づる伊賦夜坂の穴道が描かれている。それはこの場面が、死去した母神イサナミを蘇生させようとして、父神イサナキがこの伊賦夜坂を通って「月=黄泉」に行って返るところを描いた場面だからである。地上に帰ったイサナキは死の国でイサナミと接した穢れを禊ぎして祓い、穢れを海中に放出することによってアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの三貴神を生み出した。そしてそのアマテラスが天の水晶体の中に移座することによって、太陽にはさらにアマテラスの放光が加わって、現在と同じ太陽になったというのである。

 このような平田の達成がこれまで見逃され、無視されてきた理由は平田に直接の責任のない学問外の政治的な事情を別にすれば、日本の人文学の学術的あるいは思想的な弱さにあった。日本の明治時代の脱亜入欧・文明開化の風潮の中で知識世界は民族的(エスニツク)な宗教世界の基礎からこの国の伝統と文化を問い直すことなく、西欧の学問を盾にして庶民とは別世界に棲んだ。明治以来の民族の悲惨な経験の中で人々は伝統的な生活や神話・宗教の世界を救いとし、それを問い直す中で生きてきたが、それはほとんどの学者にとってはどうでもいい世界であった。そういう中で、たとえば女性として激しく明治的なものにあらがった大本教の出口なお、平塚らいてう、高群逸枝が神話の神秘を通じて日本社会に抵抗しようとしてアマテラスをもちだすようなことが起きたのである(西川祐子二〇一六「安丸良夫『出口なお』の再読」。保立二〇一六「安丸史学の方法と神話研究」『現代思想』二〇一六年九月)。

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