復曲能「大磯」公演(於平塚、シテ加藤眞吾、2023年2月12日)での解説公演

以下は、上記の公演での解説講演読み上げ原稿です。(  )の中は説明を省略した部分です。
永井さんとの対談、『中世の国土高権と天皇・武家』や『義経の登場』で書いたことのあることがほとんどですので、ブログで公開してもよいと考えました。
公演は会場一杯450人もの方々が来られ成稿でした。実行委員会、平塚市の方々、復曲能を見る会の方々、ありがとうござqいました。

 先日小説家の永井路子さんが亡くなられました。私、もう三〇年ほど前に永井さんと対談をしたことがあります。それを思い出して対談の本(『きらめく中世』有隣堂)を探し出して、この本ですけれども、なつかしくて読んでみましたら、今日御話しようと思うのと同じことを私が言っているのを発見しました。私、永井さんとそんな話をしたことはまったく忘れていました。いま思うのは大磯の虎について永井さんにもっと議論をするんだったったということです。
 永井さんは、曽我兄弟が親の仇・工藤祐経を討ったという事件は、実際には曽我兄弟だけがやったことではない。実は相模国の武士たちが連合して頼朝や時政のやり方に抗議した事件だとされます。これは歴史学界でも重要な学説として扱われていて、そう考えると『曾我物語』はたしかに分かりやすくなります。
 系図を掲げておきましたが、真ん中の上の方に伊藤祐親・秦野義常・海老名季貞という三人の武士がいます。祐親の長男の祐通と義常の娘の間に曽我兄弟が生まれていること、また海老名季貞についてももう一人の義常の娘を嫁にしていることを確認して下さい。この海老名季貞は相模国西部で秦野義常に次ぐ地位にあった有力な武士です。本拠は平塚の北の海老名で、この頃は実際には平塚の領主だったと思います。この海老名季貞が、平塚の支配者で、大磯の虎の運命に深く関係しました。このことは後に述べます。
 さて、頼朝というと、普通、北條時政の世話になっていたと考えがちですが、それは後のことで、実は流されてきた最初は、この伊藤氏と秦野氏に支えられていました。ところが頼朝はこの二人に恩を仇で返したのです。
 まず左側の祐親から説明しますと、祐親は伊豆最大の武士で、頼朝を自分のところに住ませて支えた頼朝の大恩人です。ところが頼朝はその娘にひそかに近づいて子どもを産ませました。しかも、その妊娠の最中に祐親の孫娘、つまり政子に近づき妊娠させました。これを知った祐親は激怒して娘から産まれた男の子を殺してしまい、頼朝は命からがら北條時政のところへ逃亡しました(この経過については『中世の国土高権と天皇・武家』、の第四章を参照して下さい。このブログで公開しています)。頼朝は、これを逆恨みして、祐親の敵の工藤祐経を手下に引き入れました。そして曽我兄弟の父の祐通を暗殺しました。当然ですが伊藤祐親は頼朝に対して復讐を誓います。
 系図の右側の秦野義常も相模国西部で最大の武士で、今の秦野市の領主です。頼朝が自分でいっているように恩人の一人でした。ところが頼朝は義常の娘の夫を殺してしまった訳で、義常もさすがに頼朝のやり方に呆れ、怒って伊藤祐親に同情しました。どうも頼朝は近い人間には勝手をやって嫌われ、遠くの人間を取り立てるというタイプの人間だったようです。ようするに人の使い捨てですね。
 そしてすべてを戦争にかける訳です。一一八〇年に以仁王が平氏打倒を宣言すると、それに呼応して伊豆で蜂起して、相模に移動しようとします。ただ小田原の南の石橋山で包囲されて、伊藤祐親に攻撃されます。このとき秦野義常は兵を動かしませんでしたが、さきにふれた海老名季貞は石橋山の包囲陣に参加しました。
 しかし、頼朝は運の強い人です。石橋山で大敗北を喫しましたが、生き延びて海をわたって千葉県に行き、江戸湾をぐるっと回って軍勢をあつめて鎌倉に入り、都から下ってくる平氏の軍勢をやっつけて、幕府をつくりました。これは今からみると決まっていたことにみえるかもしれません。しかし、歴史というものは偶然です。頼朝がここで殺されていた可能性も高いのです。
 もしそうなっていたら関東の武家政府の中心になったのは、伊藤祐親と秦野義常です。そしてその武家政府の場所は伊藤氏の本拠の伊豆東海岸から、この平塚あたりになっていたでしょう。いわば相模幕府です。ご承知のように、相模国府(国の役所)は奈良時代から平塚にありましたから、鎌倉よりもこちらの方が自然だったはずです。この場合は箱根の山と大磯の山を防備として平塚に幕府をおくということになったかもしれません。
 もちろん、現実は鎌倉に幕府が置かれました。相模国の武士たちは権力の中枢には入れませんでした。彼らはそういう幕府に不満だった。それが曽我兄弟の仇討ち事件に反映していたのではないか。これが最初に言いました永井さんの考え方なのだと思います。たしかに二〇歳を越えたばかりの曽我兄弟二人が切り込んで、親の仇をうつ。それだけでなく、部隊長級の有名な武士を五・六人も殺し、さらに頼朝の本陣に突入するなどということができたはずはない。実際には曽我兄弟には相模武士の相当に助けがあったはずだという訳です。私は永井さんの意見が正しいと思います。
 さて、以上が『曾我物語』の背景ですが、次に肝心の「虎の実像」について考えてみます。また系図に戻っていただきたいのですが、虎は右の方に○で囲んでありますが、父は宮内判官(宮内省の下級役人)家長で、母は平塚の遊女、夜叉王です。まず母からいきますと、遊女というと身体を売るというイメージがあるかもしれませんが、鎌倉時代までの遊女はまずは芸能の遊びの女です。ただ街道筋で活動しますので宿屋を営むことがあり、その場合話があえば客とセックスをすることもありました。ただ徳川時代のように身体を売るという訳ではありません。なにより大磯は平安時代に歌われた「今様」という謡いの発祥地として都でも有名でした。(これについては『能楽の源流を東アジアに問う』におさめた保立の文章を参照して下さい。「今様」というのは韓国のパンソリと同じような声調ではないかと思いますが)、女性の低音の太い声の謡いとでもいえばいいでしょうか。小さいころから訓練して独特の迫力があったのではないかと思います(女性の能楽師の人は、ある意味でその正調を継ぐ地位にあるのではないかと思います)。虎の母も芸能者として名の通った女性だったのでしょう。そもそも当時、有名な武士が遊女の子であることは珍しくありません。
 次は父の家長ですが、家長は京都で先ほどの海老名季貞の世話をしたことがあって、その縁を頼って平塚にきていました。系図に書きましたようにこの家長は意外な大物です。つまり陸奥守藤原基成の乳母の子、いわゆる乳兄弟でした。乳兄弟というのはもっとも親しい間柄です。陸奥守基成は奥州平泉の主、藤原秀衡に娘を嫁入らせていて平泉の実力者です。義経が平泉に行ったということはご存じと思いますが、それはこの基成を頼りにして行ったのです。その兄貴の藤原信頼は後白河天皇の最大の側近で男色の関係にあった人で、平治の乱で頼朝・義経の父の源頼朝と組んで平清盛と争った人物です。信頼は負けて死にましたが、生きていれば、家長とその母は相当出世したはずです。家長はこういう立場で、相模国での平泉の窓口・代理人をやっていたのでしょう。
 当時、都と平泉の間の商売は相当の利益をあげていましたから、家長は宿場町平塚でそういう商売にも関わっていたかもしれません。(以下追加。拙著『義経の登場』より)。こういうことをいいますのは、『平治物語』によれば、義経(牛若)が、奥州に下ったときに参加した金商人の隊列の中の武士に、名前や出身を聞いたところ、「下総(しもうさ)国の者」で、「深栖(ふかす)の三郎光重(みつしげ)が子、陵(みささぎ)助(のすけ)重頼と申して源氏にて候」と答えたという。それを聞いて喜んだ牛若が、京都で親しい武士を名前を聞いたところ、「源三位頼政とこそ申むつび候へ」というので、牛若も、自分の素性をなのった。「今は何をかかく((隠))しまいらせ侍(はべる)べき。前左馬頭義朝の末子(ばっし)にて候。母も師匠も法師になれと申され候へども、存ずる旨侍(はべり)て、今までまかり過候」という訳である。そして、一緒に下総まで下ろいうという約束が結ばれ、「生年十六と申、承安四年三月三日の晩、鞍馬を出て、東路はるかに思ひたつ、心のほどこそかなしけれ」というのが『平治物語』の結論である。つまり、義経が同道したのは金商人の吉次のみでなく、むしろ「深栖三郎光重の子」=「陵助重頼」という人物が重要であるということになる。そして、これが単なる絵空事ではない証拠は、これとほぼ同趣旨の記述が、『尊卑分脈』の義経の項目にも「鞍馬寺において、東国旅人諸陵助(しょりょうのすけ)重頼を相語らい、約諾せしめ」とあることでわかる。系図(21)にあるように、この「陵助重頼」とその父とされる「深栖の三郎光重」は、実際に『尊卑分脈』(第三編、深栖氏)に登場する人物である。まず親の「深栖三郎」光重は美濃(みの)源氏を代表する武士として著名な源光信(土岐氏の祖先)の子供で、「下野国方西に住す。波多野御曹司と号す」と注記されている人物である(以上追加終わり)。問題はこの「波多野御曹司」で、これは源頼政との関係の中で、彼が秦野(波多野)氏と関係をもっていたことを物語っている。だから、深栖光重や頼重は秦野氏と関係があったものと考えられ、相模を場として「金商人」とも関係していたことになる。これも虎の父の家長のイメージに追加してよいことである。
 ようするに、虎の身分は、本来、相当上層で、この系図の中にしっかり位置付いている女性だったのです。もちろん、虎の父親は虎が五歳のときに死んでしまいました。そして、その翌年に頼朝が蜂起して戦争が始まり、虎の保護者の海老名季貞は、さきほど申し上げたように伊豆石橋山の戦いで頼朝を攻撃する側にまわり、結果として没落してしまいました。虎は父親に続いて保護者をうしないました。このとき虎は六歳。女の子の成人は一二歳ですから、虎は母の平塚の遊女の下でそのくらいまでは過ごしたでしょう。ただおそらく一五歳になった頃、器量がよいので平塚の隣の大磯の遊女が希望して、その養女になったといいます。ここで虎の身分が低くなったことは否定できません。セックスの売買を強制されるということはなかったでしょうが、芸能の遊びのために座敷にでることはあったでしょう。
 ほぼ同時に曽我兄弟の運命も苦難にむかいます。つまり、祖父の伊藤祐親は頼朝に逮捕され、その二年後には、結局、自殺します。よく系図をみていただくと政子は祐親の孫です。ですから頼朝は、政子が頼家を妊娠したとき、祐親を許そうとします。しかし、祐親は逆にこれに怒って自殺してしまいます。いまさら何だということでしょう。政子にとっては祖父、頼家にとっては曾祖父の自殺ですから、私は頼朝の家族はもうここで駄目になっていたと思っています。曽我兄弟から言えば、頼朝に父を殺され、さらに祖父が自殺に追い込まれたという訳で、もう仇討ちをするほかないというところに追い込まれたと思います。
 虎と祐成はこういう苦難の中でであいました。二人の出逢いは虎一七歳、祐成二〇歳。この二人の出逢いは、若い二人の苦境をみた回りの人たちが中立をしたようです。ですから二人の三年間という夫婦生活は幸せなものだったろうと考えます。それにも拘わらず、兄弟が仇討ちを決行したのは、結局、兄弟が工藤祐経だけを敵にしていたのではないからです。兄弟はその黒幕の頼朝を憎んでいました。実際に、兄弟は工藤祐経を首尾よく討ち取るのですが、その後、弟の五郎時致は頼朝を殺そうとして突進しています。虎も、そういう兄弟の気持ちはわかっていたのではないでしょうか。
まとめ
 小説は歴史学をやっていますと、なかなか美しい話というのはありません。人間というのは幸せでなければならない生き物で、幸せな家はどこも同じ顔をしているといわれるように、美しい話というのは史料に残らないのです。けれども虎と曽我兄弟の話は掛け値なしによい話であるように思います。虎は兄弟の母の家を御寺にしてそこで大磯の遊女仲間とともに祐成の菩提を祈って六四歳まで生きたといいます。強い女性だったと思います。復曲能「大磯」では虎の亡霊と会うのは都から陸奥へ下り、戻ってきた僧侶であるといいます。(作者はそこに西行のイメージをおきたかったのでしょうが)、出家した虎のところへ、実際に陸奥に縁のある僧侶が尋ねたということはあってよいように思います。だ平泉にからyいそしてある夕方に桜の木の下に祐成がいるように感じて走り寄って転び、病付いて死去したといいます。
 『曾我物語』は鎌倉時代の末にはできているのですが、読みますと虎のイメージは非常によいです。そして明治時代まで『曾我物語』はいわゆる「曽我物」として人々にもっとも好まれる演目の一つでした。残念ながら『曾我物語』は現在ではそこまでのものではないと思います。その意味で、「復曲能を見る会」が大変な復曲の作業をやられ、ここ七年ほどで今回の「大磯」を含めて四つの「曽我物」を復曲した功績は大きなものがあると思います。こういう地域に根ざして「能」の伝統を復活しようという動きは大変に珍しく貴重なことだと思います。
 私は二年前の「和田酒盛」は拝見しましたが、「伏木曽我」「虎送」はみてません。今日の会場の多くの方はみておられるのでしょう。うらやましいです。とくに「伏木曽我」はシテが祐成の亡霊で、今日の「大磯」のシテが虎の亡霊であるのと対をなすもので、両方を一挙上演などという機会が今後あるといいと思います。今日の「大磯」はおそらくやや神秘的な感じがするのではないかと思うのですが、比べてみてみたいです。
 最後になりますが、平塚そして大磯は相模国府があった相模国の中心地です。そ平塚にとっては相模国府と虎は最大の文化的な資産だと思います。都市にとって歴史は大変に大事なものだと思います。現在、世界では大規模な戦争が行われ、地球環境と災害が大きな問題となっています。そのなかで大切なのは、住んでいる地域の歴史と文化を丁寧に振り返っていき、歴史というものを実感することです。日本の芸能の発祥地の一つである平塚で、こういう動きが起きたことは、日本の歴史と芸能を見なおしていく上で大きな意味をもつに相違ありません。
(なお、パンソリと今様の類似性についてはジョルダン・サンドさんの示唆をうけました。

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