伊勢外宮のトヨウケ姫大神は月の神か

 以下に書きましたことは現在執筆中の原稿ですが、基本部分は本居宣長・平田篤胤などが述べたことや、神道史研究の解説です。また私見部分は拙著『かぐや姫と王権神話』・『歴史のなかの大地動乱』・『平安王朝』などの記事を継ぎ接ぎしたものですので、オープンさせてもらいます。
 伊勢外宮をどう考えるか、本居宣長の見解の批判ですが、神道史上の最大の問題と考えています。


伊勢外宮のトヨウケ姫は御饌津神であるだけか


 本居はアメノミナカヌシは月神トヨウケ姫と同体であるという伊勢神道の主張を全否定したが、そもそも本居はトヨウケ姫が月神とされてることにについて語っていない。トヨウケ姫とアメノミナカヌシが同体であるかどうかは別にして、伊勢神道では月神トヨウケ姫と日神アマテラスが「幽契」を結んで月と太陽が昼夜を作りだすという宇宙の秩序を語るが、それはトヨウケ姫が月神であることを前提にしている。これが神話的事実かどうかを確認しなければ伊勢神道は分からないはずである。
 そこで問題の本居の「伊勢二宮さき竹の辨」にもどって、本居がトヨウケ姫という神をどう評価しているかをみると、まず本居は内宮と外宮を神社の格式としてほとんど同じものと評価する。たとえばアマテラスの父母のイサナキ・イサナミは伊勢では別宮に祭られているが、トヨウケ姫は伊勢二宮といわれるように同じ格式であり、たとえば相殿神をとればアマテラスの相殿は天手力男神と萬幡豊秋津姫(天孫ニニギの母)であり、トヨウケ姫の相殿は天孫ニニギその人と天児屋命と太玉命で殆ど差異はない。アマテラスとトヨタマ姫は緊密な関係にあって高下をいうべき存在ではないという。もちろん、トヨウケ姫はアマテラスの食事を世話する神、つまり「御食津大神」である。しかし、それはトヨウケ姫がアマテラスの「臣列の神」ということではない。トヨウケ姫=「御食津大神」は「たぐひなく尊き御食の御霊の御徳」をもっているのであってアメノミナカヌシなどとは本質的に違うアマテラスに並ぶ神威をもっているのであるとする。
 このように本居はトヨウケ姫をアメノミナカヌシと同体とするまでもなく尊貴な神であるといい、内宮が外宮を下に見ることや、トヨウケ姫がアメノミナカヌシのと同体だとして外宮が内宮を下に見るようなことはあってはならないという。これは本居らしい正論であるが、しかし肝腎の「たぐひなく尊き御食の御霊の御徳」が何なのかということが明らかになっているとはいえない。そこでトヨウケ姫について確認しておくと、この神はイサナミの神生みの終盤に生まれてその陰部を焼いて産褥死においこんだ火の神ホムスヒが、妹の土の女神、埴山姫に飛びかかり、その結果生まれた稚産霊(ワクムスヒ)から生まれた女神である。『書紀』(五段異書二)によればこのワクムスヒは産まれた途端にすぐに死んで「頭の上」に「蚕と桑」が生り、「臍の中」に「五穀」が生ったという。ここで「臍」というのは、鎌倉時代の辞書、『名語記』によれば「陰(ほと)」と同じであるから、「頭の上」に「蚕と桑」がなり、性器に「五穀」が生ったことになる。稚産霊(ワクムスヒ)は火と土の結婚によって生まれた焼畑の地母神のイメージである。だからその「臍」になった「五穀」は焼畑の粟・稗などを中心にしていたイメージである。
 しかし『古事記』では少し話が違って、ワクムスヒはすぐに死んだのではなく、トヨウケ姫を生んだとなっている。トヨウケ姫のウケは前にもふれたように穀物を中心とした食物の意味であるから、ワクムスヒの遺骸に穀物がなったというのと、ワクムスヒの娘が食物の神であるというのは意味が同じである。いずれにせよ人間は死によって遺骸を残すか、何かを残すということだろう。トヨウケ姫は穀物の精霊であることになるが、彼女は「稲霊」であるから(『延喜式』大殿祭祝詞)、彼女は焼畑の粟・稗などの穀物ではなく、稲穀の霊であることになる。
 このようにトヨウケ姫は五穀の中でもとくに貴ばれた稲霊の神であるのであるが、しかしなぜそれがトヨウケ姫が「たぐひなく尊き御食の御霊の御徳」としてアマテラスと並ぶ理由になるのであろうか。平田はこれを「火の土を蒸によりて雨は降り、火と水と争うはしに雷は鳴る」として、火神・雷神のホムスヒが土の女神と交合することによって富をもたらす女神(ワクムスヒ)がうまれたのだと説明している(『古史伝』一七項二八九頁)。これはアマテラスと関係させることなく説明することはできるのである。
 そうすると、結局、アマテラスとトヨウケ姫との関係は『止由気宮儀式帳』に、外宮の起源は、アマテラスがワカタケ大王(雄略)の夢枕に出て、「天から降臨して一人でいるのは苦しく、大御饌(みけ)にも不安があるので「丹波国の比治(ひじ)の真奈井(まない)に坐す我が御饌津神、等由気(トユケ)太神を我が許に欲す」と託宣し、それにしたがって大王が外宮にトヨウケ姫を遷したという記事に求められることになる。本居はこれを論じている訳ではないが、しかし、これは結局のところトヨウケ姫はアマテラスに奉仕する神であるという意味ではトヨウケ姫が「臣列」にいる神であるということになるのではないか。トヨウケ姫の神格がアマテラスの御饌津神というだけではこのアマテラスとトヨウケ姫の関係を対等というのは難しい。

両部神道・伊勢神道と月神トヨウケ姫


 『止由気宮儀式帳』でむしろ重要なのは、天から降臨したアマテラスがトヨウケ姫を「我が御饌津神」であったとは、トヨウケ姫は天上の神であったことを意味する。また同時にトヨウケ姫が「真奈井」という井泉に宿っていることは彼女が水の神という性格をもっていたことを意味する。これはトヨウケ姫は天上の月神であり、北辰の神アメノミナカヌシと同様に水の恵みの神であるとする前述のような神道五部書で語られる伊勢神道の教義と正確に対応するのではないだろうか。
 神道五部書のうちでもっとも早くできた「伊勢宝基本記」には「豊受宮は月天の図形」とあって、伊勢神道にとってトヨウケ姫が月神であるというのは根本的な前提であった。そしてそれを示す史料は外宮領の志摩国吉津御厨にあった園城寺修験の寺、仙宮院を一つの場として作成された両部神道の聖教にさかのぼる。『三角柏伝記』、『宝志和尚口伝』、『中臣祓訓解』、『中臣祓記解』(岡田荘司一三四)などの両部神道書であって、岡田荘司によれば、このうちでもっとも早く成立していたと考えられる『三角柏伝記』と『宝志和尚口伝』にはおのおの「内宮天照坐大日孁貴は名づけて日天子と曰ひ、外宮天照豊受皇大神は名づけて月天子と曰ふ」、「天照大神は日輪、豊受大神は月輪」とあり、さらに少し遅れる『中臣祓訓解』にも「日輪則ち天照皇太神、月輪則ち豊受皇太神」とある。
 もちろん、『三角柏伝記』、『宝志和尚口伝』は一二世紀半ば過ぎの成立であって、それ以前には伊勢外宮のトヨウケ姫が月神であるとした史料は存在しない。しかし、やはり一二世紀半ばの「長寛勘文」(『群書類従』雑部)に引用された「熊野三所権現御垂跡縁起」には、熊野三所権現は大宮の大湯原の櫟の木の梢に三枚の月の形となって天降ったと伝えられている。そして「奮記」では伊勢と熊野は同体とされていたというのはきわめて興味深い。一二世紀最初期成立の大江匡房の『江談抄』にも熊野三所権現と伊勢神宮は同体であって、熊野本宮(家津御子)は内宮にあたり、新宮(牟須美・速玉)は外宮にあたり、那智大社は荒祭宮にあたるとある。このような伊勢・熊野同体説は確実により古くにさかのぼるのだろう。そしてこの『江談抄』の一節には内宮は救世観音の変身とあるが、仏教では一般に観音菩薩は日天子、勢至菩薩は月天子とされるから、それを敷衍すれば外宮は月天子とされていたのではないか。『梁塵秘抄』に「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し。広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」あるように、熊野への参詣の相当部分は伊勢路を通っている。九三四年に神嘗祭で伊勢神宮と齋宮寮の役人の乱闘騒ぎが起きたときに「参宮人十万人」が恐れ畏んだとあるが(「大神宮諸雑事記」)、伊勢参詣と熊野参詣は重なっていたであろう。伊勢・紀伊は古くから海と海運で結びついおり、月神と海神の関係は深いから、熊野と伊勢が共通する「月」の信仰圏にあった可能性は高いだろう。そもそも前述の両部神道の揺籃の場となった仙宮院のあった吉津御厨が伊勢から熊野街道沿いに南下した熊野の信仰圏と伊勢の信仰圏の接する場所にあったことは熊野と伊勢の直接の関係を示唆するという(伊藤聡二〇二〇、一一四頁)。

『源氏物語』『竹取物語』と月神トヨウケ姫


 しかし月神トヨウケ姫は、意外なところにその姿を現す。つまり『源氏物語』(少女)には次のような歌がある。
あめにます豊岡姫(とよおかひめ)の宮人(みやびと)も わが心ざすしめを忘るな
 この歌は光源氏の息子の夕霧が、この年の五節舞姫に指名された娘に幼い恋をしかけた時のものである。五節舞姫とは、一一月の新嘗祭の最終日の豊明節会といわれる打ち上げの納会(のうかい)の場で、夜、天女の扮装をさせられて舞う少女たちのことをいう。この彼女らが天女=「天に座す豊岡姫の宮人」であるという幻想を前提として、夕霧は「あなたがトヨオカ姫に御仕えする「宮人」=女官となっても、最初に声をかけた私のことを忘れないで」と呼びかけたという訳である。この豊岡姫と「豊受(とようけ)姫」は、「ヲ」と「ウ」の音通で同じ女神をあらわす。「天に座す豊岡姫の宮人」が天女を従える天の女神であること、しかも豊明節会は夜の節会であるから、この神はアマテラスではありえない。そしてこの豊岡姫と「豊受(とようけ)姫」は、「ヲ」と「ウ」の音通で同じ女神をあらわすから、まさに月の女神ではないか。
 新嘗祭は旧暦一一月の冬至に近い満月の日に行われる祭儀である。その納会の豊明節会は、冬至の冴え冴えとした冬の満月を眺めながらの節会であった。たとえば「豊明の節会の夜、さへかえりたる有明に参られたり」(『右京大夫集』)、「節会は十八日、月いとあかかりし」(『弁内侍日記』宝治一年)、「童女御覧、明月皓々、白雪紛々」(『平信範日記』仁安二年)などとある通りである。深夜の寒月と雪景色に幻想的な雰囲気を求める様子が興味深い。これらの貴族の日記は時代が下るが、しかし、豊明節会が月明の宴会であるというようなあまりに当然のことは『六国史』などの国史には書かれない。しかし大嘗祭の祝詞などに「千秋五百秋に平らけく安らけく聞食して、豊明に明りいまさむ」などとあるのも、「御平安に月明かりに照らされて御過ごしなさいますように」という意味である。
 (『古今和歌集』巻一七)は『百人一首』にも取られていて有名な良岑宗貞(出家して僧正遍昭)の歌で、詞書(ことばがき)に「五節舞姫を見てよめる」とある。つまり、やはり五節舞姫が天女であるという幻想に乗っかって、「天の風よ、雲の通い路を吹き閉じてしまってくれ。ここにいる乙女=天女が、もうしばらくでもとどまってくれるように」という意味である。そしてこの天女がどこから来たかを示しているのが、「天の原 雲のかよい路とぢてけり月の都の人も問ひこず」という『夜の寝覚』(巻一)に残された和歌である。「雲の通い路」が閉じてしまうと「月の都の人」がやってこれないというのだから、彼女らは「月の人」とされていたのである。これまで『源氏物語』の注釈書などでも正体不明とされていた豊岡姫は、実は五節舞姫を女房として従えている月の女王であったということになる。真面目な宗教史料、実際には仏教史料にはトヨウケ姫の名前はでてこないが、逆にそれはそれが月の女神を意味する普通名詞であったことを物語っている。
 『源氏物語』は一一世紀初頭の執筆であるが、トヨウケ姫という名前はでてこないものの同じ観念を示す五節舞姫の歌、「天つかぜ雲の通ひ路ふきとぢよ をとめの姿しばしとゞめむ」は九世紀のものであるから、九世紀に月神トヨウケ姫の観念があったと考えることに問題はないはずである。注意しておきたいのは、三善清行が一〇世紀初めの醍醐天皇に対して提出した、有名な「意見封事十二ヶ条」という意見書に、「(九世紀前半の嵯峨・仁明の両天皇が)もっとも内寵を好む。故にあまねく諸家をして、この妓を択び進らしむ、おもへらく選納の便とおもへり(嵯峨・仁明の親子の天皇は御自分の発意で女性を寵愛することが多く、貴族の諸家から五節舞姫を進めさせ、キサキを選ぶ機会とした)」とあることである。この宮廷舞踏会によって後宮のメンバー、女王や女房を選び出すという五節舞姫のシステムが一〇世紀以降の後宮社会の枠組みを作りだしていったのであるが、この大きな動きの中で月神トヨウケ姫の名が語られたのは確実といわなければならない。
 そもそも清和天皇の妻となって陽成天皇を生んだ摂関家出身の藤原高子も五節舞の場で天皇とであった女性であった。彼女の兄の基経は高子が五節の月の舞姫として宮廷で舞った頃、「后、庭中に露臥して、腹の脹満に苦しむ、頃之して腹潰え、気昇りて天に属き、即便ち、日となれり」という夢を見たという(『三代実録』)。その後に高子が入内し陽成を妊娠したのであるから、これは一種の予知夢であったことになるが、庭に裸体のまま臥して「腹の脹満に苦しむ」高子の姿は、いわば五節の月の舞姫が天皇と結ばれて地上に降り、地母神となったということだろう。月神は神話学的にはつねに地母神であるから、これも九世紀に月神であり、地母神であるような存在が明瞭に意識されていたことを示している。
 いうまでもなく『竹取物語』は月の仙女の物語であるが、物語の大団円をなす天皇とかぐや姫の遭遇は、帝(みかど)が「多くの貴族の人生を破綻に追い込んだかぐや姫とはどんな女か」とかぐや姫を呼び出したことに始まる。ほとんど見逃されているのは、この呼び出しが秋九月の末か、十月に入ったころだったことである。つまり朝廷では新嘗祭にむけて準備が進められている時期であって、これは五節の舞姫への動員の首実検であった。ところが、この女自身が月の女王であり、いわば豊岡姫自身であったことがわかり、天皇は一目で恋に落ちたというのが『竹取物語』の大団円の始まりだった。しかし、彼女は高子とは違って実は正真正銘の月の仙女であって、天皇と結ばれることを拒否して天に戻った。これが『竹取物語』の本質であったことは拙著『かぐや姫と王権神話』でくわしくみた通りである。
 もちろん、『竹取物語』にはトヨウケ姫の名前は登場しないが、『竹取物語』は五節舞姫と月の新嘗祭の神話から生まれた物語、神話時代が現在に残したもっとも美しい物語なのであって、これまでのように『竹取物語』を神話や神道の世界と無関係なものとして考えることはできない。拙著『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、九世紀は大地震と噴火、温暖化とパンデミックという三重の危機の中で、日本の社会と国家が都市貴族の支配する荘園制的な社会システムを作り出す激動の時代であったから、そこで当時の人々は新しい思想や宗教・文化を必死で探るとともに、神話と神道の知識を動員して物ごとを考えようとしていた。私には、このときに月の女神トヨウケ姫の名前がしばしば語られたことを疑うことはできない。

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