わかりやすさを批判する (随筆)
わかりやすさを求める傾向は理解できるが、その状況を肯定できない。
わかりやすさを求めたとて、この世はわかりにくい。なぜ火があり、水があり、風があり、土があるのか。自然はふくざつ怪奇である。わかりやすさは、人間のための虚構だ。わかりやすさを求めることは、虚構を求めることだ。わかりやすさに縋りすぎることは、わかりにくい自然から離れて、わかりやすい虚構に溺れることではないか。
例えば、石を拾ったとする。どんな石を拾ったの? 友だちに聞かれたとする。石をよくよく眺める。石は石である。しかし、石の形状がある。石の歴史がある。滑らかで小さかったり、大きく尖っていたり、砂岩だったり、流紋岩だったり、およそ137億年前に生まれた宇宙の塵だったり、およそ40億年前に地球で原始海洋によって育(はぐく)まれた花崗岩だったり、石の内部にも色んな輝石がひしめいており、その輝石ごとにそれぞれの時間があるかもしれないのである。しかし、石は石である。「平べったい石だよ」それで済むわけである。「へえ」聞いた側も納得である。たんじゅん明快だからである。
わかりやすさの正体なんて、こんなものではないか。
ものごとの裏には有象無象の情報がひしめきあっている。そこから重要そうなのをいくつか選びとり、呑みこみやすい情報に噛み砕いて水増しして伝えてゆく。これが、わかりやすさの正体ではないか。
このとき、注意することが二つある。
第一に、ものごとの実像を捉えたと勘違いしてはならない。ものごとを深く知ることは、ものごとの内包する核たる情報をより多く知っていることである。うすくひろく延ばされた情報は、ものごとの僅かな一面を語ったに過ぎなかったりする。
第二に、情報提供者にあやつられてはならない。呑みこみやすい情報が造られるとき、提供者は自分の好みにしたがって情報を選び、他の文言に造り変えている。場合によっては、提供者の考えに賛同させる形で、わかりやすい情報を編んでいることがある。わかりやすい! わかりやすい! 安直に叫んでいる者は、相手の仕掛けた罠にまんまと嵌っていて、罠の奥から、くぐもった「わかりやすい!」の叫びが木霊しているだけかもしれない。
報道によく当てはまる。
テレビであれば、規定の時間内で、なるべく視聴者の気を惹くように番組を組む必要がある。記事であれば、規定の枠内で、なるべく読者の興味を唆るように書く必要がある。ないしは各団体の目的に沿って情報を造り変える必要がある。その必要性ゆえに、情報はしばしば歪められている。受け手は、わかりやすい! と情報を安易に信じてはならない。参考資料として脇に置くのが賢明である。
さらに云えば、わかりやすさとレイアウトのよさは違う。レイアウトのよさは、すなわち、見る人が見やすいことである。内容をいかに視覚的に呑み込みやすい形で見せていくかである。わかりやすさのように、内容を簡素化する必要はない。内容は深いままで構わない。その内容をいかに見せるかに尽きる。私が思うに、日本はレイアウトがよくない。そういうレイアウトのよさを抜きにして、内容を恣意的に簡素化していって、中身を乏しくしてゆく、"わかりやすさ"の広まる世を、どうして肯定的に捉えられるだろうか。
むろん、虚構には、虚構なりの、おもしろさがある。ふくざつすぎるものは、おもしろくない。情報の簡素化は大事である。しかし、そういう虚構を現実だと誤認して、ふくざつ怪奇な自然のすがたを忘れてゆくことは問題である。
現実は、虚構ほど、かんたんではない。
だから、現実をあなたの腹で享け止めたいなら、腰を据えてわかりにくい石を平然と噛み砕く他ないんじゃないか。
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