絵具と血 (小説)
誰が誰だか分からない人混みに揉まれたい。
美大を中退して広告企業の企画部に勤める男は、痩せ細った身を抱いて目をつむった。ネットに住所を貼り、「誰でも可」と人間を募った。彼は四万人のフォロワーを抱えるツイッタラーであった。小一時間ほどで2DKの安アパートに床板が跳ねるほどの人間が集まった。誰しも行き場がなかったのである。
元カノの居た部屋のレコードを誰かがいじり、QUEENの"We Are The Champion"が掛かると、皆で肩を組んで大合唱をした。男は内心消えもいりたくなり、胸毛を汗水に浸しつつ、仲間たちに笑みを作った。美大の同期の中でひときわ異彩を放った恐ろしい美貌の女の顔、それから、都内の美術館に収蔵された、その子の巨人の絵が、男の脳裡に過ぎっては消えていった。
彼のアレクサでドレイクの"Way 2 Sexy"が掛かると、人間たちはほろ酔いの唇をねじ曲げて奇怪なダンスに耽り始めた。月あかりが窓から零れ落ちて、人間たちの青白い影が床におどった。男は夢中にダンスをした。性別を問わず、人間の体に寄りかかったり、跳ね返されたりする、その人間の渦の中で自分がしゅるしゅると磨り減る快感に笑っていた。
月も隠れた夜更け、高校生かと思われる女が、古箪笥の底から絵具を見つけて来た。自分は美術部だから絵を描きたいと笑窪を見せた。女の汗ばんだ肩にどくだみのような青痣がみえた。男は虚ろな顔で夢みがちな女に許可を与えた。Amazonで購入した小さな正方形のキャンバスを渡した。ダンスに飽きた大人たちは女の手さばきを物珍しそうに鑑賞していた。だが、いざ女が構図を決めて取り掛かろうとすると、永年かび臭い古箪笥の底で発酵していた絵具は、中の油が沁みだして、朽ちかけであることが分かった。女が「くぅ」と唸りながらキャップをひねっても、袋の側が皺を寄せてねじれるだけで、キャップは凝り固まって滑り出すこともなかった。「貸せ。俺が開けてやる」男は人差し指に絵具のキャップを巻き付け、突き出した尻を震わせて力を込めたものの、絵具のキャップは錆びついた把手のようにびくともしないのだった。人差し指は燃えるように痺れていた。男は絵具の開け方をスマートに検索し始めた。五種類ほどの開け方が画像付きで比較検討されたウェブページが見つかった。男はページに沿って絵具を平皿に放りこみ、蛇口をひねって湯水をかけ流した。シンクの端に放られたゴム手袋を嵌めて、指を滑りにくくした。男が再び絵具に挑むと、絵具の何本かは男に身を許して、チューブの口を鮮やかに晒してくれた。女は声を上げて男の顔を見上げた。男はまんざらでもなかった。男は女のためを想って一本ずつ開けていった。だが、何本かの頑固な絵具、ローズマダーだの、ウルトラマリンだの、パーマネントイエローレモンだのはゴム手袋に吸いつけて摩擦力に巻き込もうとしても、溝に固まった絵具が崩れず、キャップは回っていかなかった。
女はこれだけ色があれば足りると明るく強がってきたが、男は次第に気が昂じたのか、「ぜんぶ開けるんだよ」と怒りっぽく突っぱねた。女は不安をあらわにした顔で目を開きつづけた。女は男に誰かを重ねて見たのか、部屋の隅に置いた鞄を握ると、玄関から飛び出していった。男は構うこともなく火に掛けた鍋に水を数センチほど張り、キャップが熱湯に浸るように鍋底に押しつけた。
男はこの方法によって溝に固まった絵具を溶かし切った。頑固な絵具を次々と解き放っていった。だが、唯一、ローズマダーだけは、生きた貝のように頑なに閉じていた。男は憤懣やるかたない思いで人差し指に力を込めた。それでもキャップは閉まり切っていた。かえって袋の側が勢いよくねじれていったがために、袋が限界まで引き延ばされて破けてしまった。小さな傷口より赤黒い液体が膨れあがり、中のものがどろどろと押し流されて来た。蛇口の水でこすったが、ゴム手袋に絵具は吸いついたままみるみる広がっていき、手のひらが乾いた血のいろに染まってしまった。
男は暗然とその手を見ながら、誰かを殺めた手のようだと震えていた。男はゴム手袋を忌むように急いで取った。してみるに、男の人差し指の素肌は、力を込め過ぎたせいか、皮膚がずる剥けて肉が丸見えであった。血がいくらか滴り始めていた。男は指の痛みを鋭く知りながら、血いろのゴム手袋を握り締めていた。男は周りの人間を気にも留めず、一心不乱に絵具に向かった己を認めた。男の手にはゴム手袋の絵具だの人差し指の血だのが入り交じって血のいろが氾濫している。男はその手を黙然と見やり、美術の道を諦めて己を封印した代償の血が流れていると稲妻の如き考えに打たれていた。
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