義理歩兵自伝(17)
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会社を設立してから約2年の間、大卒浪士と義理浪士は仕事ばかりをしていました。
少しずつデザイン施工の仕事を得られるようになり、それを軌道に乗せようと頭がいっぱいでした。
その間に、ホオアカと暮らしていた祖母のグルメ官能は、夜逃げ後のショックから立ち直れずに、ひとりの時間をひどく寂しがるようになり、早く楽になりたい、早くおじいさんに会いたい、そればかりを望むようになっていました。
そして徐々に精神的に弱ってふさぎこみ、ある日自らの手でこの世界から去ってしまいました。
小さな頃から奉公に出され、10代の頃から膠原病に苦しみ、苦労をし続けた人でした。
小学校に上がるまで、義理浪士が最も長時間一緒に過ごした家族でした。
義理浪士はお通夜の晩に、まるで生きているかのようなきれいな祖母の顔を見て嗚咽が止まらなくなり、そのまま歯を噛み合わせられなくなってガチガチと震えてしまい、倒れてしばらく痙攣のようなものを起こしました。
ホオアカと大卒浪士が全身を押さえて心配してくれました。
それが収まり、泣き止むのが収まり、お葬式が終わって、首をブンブンと左右に振ってそのことで悩むのをやめて、祖母は可哀相なんかじゃないのだと頭でわかるようになっても、目を向け切っていない未消化の気持ちがどこかにあるはずだと時々自分の心の底を懐中電灯で探ってしまう癖が、長いこと取れませんでした。
これでホオアカはアパートに一人になってしまったので、私たちのところで一緒に住むことになりました。
そして、その頃の義理浪士にはある悩みがありました。
何年も前から続いていた、妊娠しているわけでもないのに微量に母乳の出る症状。
ホルモンの乱れかと思い放置していたのが、いつまでも続くことで大きな不安となっていました。
生理不順もひどく、それまでに婦人病のチェックをほとんど受けたことのなかったこともさらに不安をあおり、義理浪士はとうとう、柄にもなく婦人科で相談してみることにしました。
訪れたクリニックの婦人科医は、色素の薄い、強い印象はなくとも深い安心感を与える顔をした初老の女医さんでした。
そこで医師から「プロラクチン」というものの値を調べます、と言われて血液検査をすることに。
説明によれば、プロラクチンの血中濃度の正常値は15ng/ml以下、それ以上になれば高濃度プロラクチン血症という病気だということでした。
安心色薄医「結果が出ましたよ・・・・・でも、数値は108ng/mlと、かなり高めです。」
義理「(108・・・・!煩悩の数じゃないか・・・!)」
安心色薄医「それでね、生理の様子も合わせて考えると、これだけ数値が高いと妊娠は難しいでしょう・・・」
義理「・・・それは、不妊症ということですか?」
安心色薄医「そうです・・・体が妊娠している時と同じような状態にあります。だから、排卵も起きていないのね。つまりこれは、不妊症と言えます。お薬は1つあるのですが、それはとても副作用が強いんです。副作用の出方は人によりますが、胃の負担が強いので、それが飲めるようなら改善も期待できますが、副作用に負けてしまうようだと、なかなか治療のしにくい症状ですね・・」
いつかは子供を産み育ててみたい・・・そう思っていた義理浪士は、この思ってもみなかった結果に動揺しつつも、きっと薬が効くだろうというどこかぞんざいな陽気さをもって家に戻り、用法通りに食後に薬を飲みました。
しかし、ものの数分で猛烈な吐き気に襲われ、すべてを吐き出してしまったのです。
その後、何度服用しても結果は同じで、その度にひどい吐き気と嘔吐を繰り返しました。
吐くたびに前向きな気持ちも一緒に失いながら、その副作用との2週間の格闘の末、唯一の望みだった薬の効用が期待できないことがわかりました。
「こんなにあっという間に諦めなくてはならないなんて・・・とても信じられない・・・・!」
それからというもの、「きっとなんとかなる」という弱々しい可能性を無理矢理にでも希望的に観測するために、まるで目隠しをされた競走馬のように、思い切り圧力をかけて心の「不安検索機能」を強制的に遮断しながら、インターネットや本で情報集めをしました。
奇妙な興奮状態が続き、目が冴えて夜も眠れず、心の一切が休まりませんでした。
同じ症状から回復した人はいないのか、どうやって回復したのか、どんなに奇跡的な回復例でもいい、「蓬莱の玉の枝」でも「龍の首の珠」でも「藤岡揚げ」でも持ってくるから、なにかひとつでも方法はないのだろうか?!
そこで、漢方薬による治療が期待できることを知った義理浪士は、すぐに漢方薬屋さんに相談に行き、薬を処方してもらいました。
期待でいっぱいに最初の一包を服用してみると、その漢方薬ですらも吐き戻してしまう。
諦めきれずに飲み続けるも、その頃にはこれまでにかけた負荷のせいか胃は弱りきっていて、どんな刺激にも吐き気と痛みが収まらなくなっていました。
少しでも胃の調子が良ければ、薬を飲んでみる。
しかし、飲むたびにやはり、身体が拒絶する。
繰り返して、根負けしました。もう、無理だ・・・・・
プロラクチン濃度が高かったため、この症状の原因の一つである脳腫瘍の可能性もあると言われていた義理浪士は、仕方なく、もう一度婦人科を訪れました。もう、ファイティングポーズを取るのもやめて、両腕をだらりとぶら下げて。頼む、、脳腫瘍だけは、あとはもう、それだけは勘弁して欲しい・・・・・・・・
そして残念ながら薬が飲めなかったこと、相変わらず生理もひどく不順なことなどを報告して診察台で検査を受けていると、途中であの安心色薄医が、なにやら「ふやっ」というような奇声を発しました。
「義理さん!!あなた、妊娠しています!なぜだかわからないけれど、妊娠していますよ!」
頭にたらいが落ちてきたのかと思うほどビックリして、チカチカする目でモニターを見てみると、確かに胎児が映っている・・・・・・
気を取り直して、ウォーリーを探すような気持ちでもう一度、眼球をまるごと瞳にして覗き込む。やっぱり、映っている・・・・・!!
義理「ど、ど、どうして・・・・・・・」
安心色薄医「どうしてなのか、こればっかりは、、そんなはずないのだけど、本当にまったくの奇跡ね、よかったわね・・・!」
義理「まったくの奇跡・・・!!」
そのあと病院を出た時に、大泣きをしたのを覚えています。
突然ママになる驚きで飛び上がって、そのままポンッと1人乗り用の雲に乗ってしまったような独特の孤独感とともに、どんなに両手を広げても、天を仰いでも、何かにどれほど大声でありがとうと叫んでも表現できない喜びで記憶がすっ飛んでしまい、その帰り道のことは、どうしても思い出せません。
ただ、あの瞬間から自分のマインドセットが突如別のものになってしまって、その「実感」が自分をがっしりとハグしていました。
私の体内には、命がいるんだ・・・・!!!!!!!
これが、義理浪士の人生で起きた、唯一の奇跡らしき奇跡でした。
大きな奇跡でねくて、しみません・・・・
かくして不思議なプロセスをたどって妊娠した義理浪士は、それまでの力仕事をセーブして、ゆったりとした妊娠生活に入りました。
それまでは、公園に行けばいつでも、
「む・・・!この舗装は目地にわざわざホワイトセメントを使っている・・・!なのになぜこんなにチープな人工石を使ってしまったのだろう!」
「この土手にオリーブを植えたのはいいが、その足元にあやめを組み合わせちゃダメじゃないか・・・・・」
などと、すべてのものを庭師目線・工事現場作業員目線でばかり見ていたというのに、
晴れた日に、そばの街にあった大きめの公園を散歩すると、さつきの花や水中の鯉などがふんわりとした白っぽい光をまとっているように見えました。
義理妊婦は、それを赤ちゃんに伝えました。
公園に来たらさつきがいっぱいだよ、鯉もいるよ、ホワーっと白く発光してるよ。
いつか、さつきの花の蜜を一緒に吸ってみよう・・・!(*´∀`*)
妊娠中に義理妊婦は、出産や赤ちゃんのお世話について調べ始めると止まらなくなり、日頃の異常性を丸出しにして夢中になりました。
そして、病院で出産することに対して億千万の胸騒ぎを感じ、その他の選択肢に関する情報を仕入れることに全力で没頭しました。
調べれば調べるほど、自宅出産や水中出産、イルカと一緒の海中出産など、エキゾチックな情報が山ほど出てきました。
アクティブ・バースに関する様々な海外の著書も日本語訳されたものを読むことができました。さすがはジャパンだと思いました。
そして、ホオアカと一緒に毎日、綿のさらしを切っては布おむつをチクチクと手縫いして、できる限り素朴で自然な子育てをするための準備を始めました。
当時、なぜか二人で日本語を話せる中国人の真似をすることにハマっていた私たちは、
「ちょとーー糸取って欲しあるよー」
「イタタ!指に針刺さたあるよー」
「今日のお昼何食ぺるかー」
というような話し方を大声でするようになり、たまに何かで険悪になると、急に秋田弁で話すことに気まずさを感じました。
こうして話すようになってから、隣の家に来ていた介護ヘルパーさんと玄関先で顔を合わせた時に挨拶をすると、彼女が笑いをこらえるようになりました。
70枚のおむつが縫い上がる頃にはお腹も大きくなり、徐々に出産が迫ってきました。
義理妊婦は最終的に、「病院には行かずに自宅での自力出産に出来る限り満足のいくように挑戦して、もし困れば自宅から2分のところにある助産院に頼ろう」という、チャレンジ精神と様々な不安を両方とも汲み取った折衷案で挑むことに決めました。
助産院の院長さんはたくましい女性で、その容姿・佇まいともに、女子プロレス:LLPW-X代表・神取忍兄貴を思わせる人でした。
同時にちょうど借家の大家さんがお風呂場の改装をしてくれるということで、解体したバスタブを出産のために貰い受けました。
するとそれから幾日もせずに、まだ出産までは一ヶ月もあるというある秋の夜、お腹の痛みが始まりました。
予定日までひと月もあるのだから、ただの収縮だろうとタカをくくっていると、痛みはどんどん強まってきて、次の日、2日目の夜には破水してしまいました。
「まだまだ先のことだと思ったのに、スタートしてしまった!!」
急いで解体したバスタブをキッチンに置いてお湯を張り、自然塩や竹炭を入れて準備をしました。
こうして始まった出産は3日目に突入し、その夜遅くから痛みは恐ろしく激しくなって、自分で子宮口を調べると約7センチの開きがあることがわかりました。
そこから夜中まで7センチのまま進まないことに業を煮やし、そばの助産院に電話をしてチェックしてもらうことにしました。
到着してすぐに心音を確認すると、赤ちゃんは元気でした。
調べてもらうと、子宮口はきっかり7センチ開いているとのこと。
「工事現場作業によって心眼が磨かれ、指先で正確に距離が測ることができるようになっているじゃないか・・・・!」
そのことに1人報われない誇りを感じながらも、もうその時点でとんでもない痛みで歩くのがやっとでした。
義理産婦はそこから4時間、畳の部屋を借りて陣痛に耐えました。
大卒浪士は手を握ってくれましたが、雌ハルク♀と化していた義理産婦は渾身の力で握り返してしまい、それに耐えている大卒浪士はリポビタンDのCMでファイト!一発!と汗だくで叫んでいる時の宍戸開のようでした。
助産師さんが途中、「義理さん、騒いでいいのよ、わめいていいのよ~~」「なにか言ってみてくださ~い」というので、それなら何かを言おうと思うのですが、言うことも思いつかず、痛みのため声を出すこともできず、仕方ないのでかろうじて「だずげで・・・」とだけ言って、あとは静かに打ち震えて耐えました。
陣痛中は、助産院の中を歩く誰かの足音や、普通に話す話し声が聞こえてきただけで、自分が筆舌に尽くしがたい痛みの中にいるというのに呑気なものだと思い、ひたすら無駄に、
「おのれ・・・おのれ・・・・人の気も知らずに・・・・別の次元に一人にしおって!!」
と思い続けました。別の部屋から漏れてくるちょっとした笑い声などにも、イナズマのようなイラッ!!!が発動し、まともに思考できませんでした。
そして、昔から「障子の桟が見えなくなった頃に生まれる」と言われるとおり、陣痛中に目を開けても、痛みのあまり、視界が健さんの昔のヤクザ映画のように白黒になってきたところで、
体の芯にある大木の幹が外に出ようとしているような感覚に襲われたため、
「うまれる・・・!」と、この音のすべてに濁音をつけて呪いの声で訴えました。
助産師さんが気がついて、あらーもういよいよね、じゃあ歩いて移動しましょう!と、「拷問に耐えてね」と同義の言葉をピクニックにでも誘うように発したので、それに日本刀で斬られたかのようなショックを受けながら歯を食いしばって歩いて分娩室に移動し、
椅子のような分娩台に座って、いよいよ最後の聖戦に身を投じました。
もう痛くて何が何やら、意図しない敵意を周囲のすべての人に持ちながらも彼らの助けに完全に依存して、狼の唸りをあげながら、赤ちゃんを生かすことだけを胸の一点に光らせながら、
惑星を壊すことができると思える程のパワーで、頭を出そうとする赤ちゃんを衝動のままにいきみ出そうとし、今じゃないわよなどと言われ、
がああああああああ今いきむなとか言ってんじゃねえそれどころじゃねえんだよ身体が勝手にいきむんだからどうしようもねえだろ文句言うんじゃねええええええええ
そこであの神取兄貴院長はなんと、「はい義理さん、歌うよ!!歌いましょう、いいですか!」と言って、いきなり
「この大空に~~~翼を広げ~~~飛んで~~ゆきた~い~よ~~~♪」
と、ソプラノ歌手のような美しい声で歌い始めました。
そしてその時ほとんど爬虫類の知能指数しか持っていなかった私は、とにかく従うことしか考えられず疑問をはさめず、あの痛みのさなか、
「く、く、くぉの大空ぬぃいいいいい~~~~~~~翼ぅを~~広ぐぅええええええありゃああああああああ!!」
と絶叫しながら歌いました。
神取院長「うまいうまい!!飛んで~~ゆきたいよ~~~~~はいっ!!」
義理「飛ぉんどぅええええええ~~~ゆぎだ~~い~~ぅいぅいぅいぅいぅい~~ぃよーーーーぁあああああいいいいいいううううえええええぼらああああ!!」
と、その後もこのように陣痛の波が来るたびに無理やり歌い、壮絶な合唱の中で出産が進みました。
頭が出てきて、もうほとんど歌詞を辿れなくなってきてから肩が出て、記憶も定かではありませんが、肩が出たあとはそのまま一気に体がすべて出て、
その瞬間にそれまであった悶絶と絶叫がガツン!とブレーカーを落とされたかのように途切れて、信じがたいほどの静寂で無痛の世界に今目覚めたように戻ってきて、出産が終わりました。
・・・・お・・・・・・終わっ・・・た・・・・・
自身が突然に無痛にあることに唖然、唖然、唖然、として、その数秒ののちに、無事に生まれた赤ちゃんと居られる喜びが蕾から花が開くまでの早送り映像のように一気に開いて、その小さな女の子を胸に置いて自分のベールで包んで、胎脂のあの天国のような匂いに安堵してから、崩れるように感泣に身を任せました。
その後、約24時間の乳房の激痛に絶叫マシーンと化して脂汗をかきながら耐えて、
助産院がくれた「寿」と書いてあるへその緒入れを見て感動しすぎて「ことぶき、ことぶき・・・!」と言いながらおいおい泣いて産後ウツを乗り越え、
5日の入院後に、小さな命と一緒に家に戻ってきました。
毎日、ホルスタイン牛のように溢れる母乳を与えて、布おむつを洗い、一端のママになった楽しみを満喫しました。
産後しばらくは想像していたよりもずっと安定感のある時間を過ごしました。
数ヵ月後から一時的に仕事に復帰し、昼間は庭の仕事で缶コーヒーBOSSと左官道具の似合う渋いニッカポッカの労働者、夕方からは赤ちゃんにおっぱいをあげるママに変身しました。
時々セメントだらけの作業服を着たまま授乳をしていると、道行く人は奇異な目で見ました。
それが自分でもおかしくて、通り過ぎたあとにプププ・・・と笑ったことが何度もありました。
兄貴→おっぱいママ→兄貴→おっぱいママと繰り返しすぎて、別の意味でケンタウロスになった時期でした。
その後の3年間の授乳中、乳腺炎になってもこの程度の痛みなんざぁ出産に比べればマシだと言って痛みで舌を噛まぬように口に何かをはさんで自力搾乳でくぐり抜けて、母子ともに病院にかかることもなく卒乳できました。
はじめは人生初の巨乳状態に心躍りましたが、それは悲しきことに3年で見事に失われました。
あの、胸部も美香さんだった栄光の日々が懐かしいです・・・・
そしてその3年間の間に、大家の都合で借家を出なくてはならなくなった私たちは、いよいよこの自伝のラストの舞台となる「廃工場」へと引越しをしたのでありました。
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