義理歩兵自伝(5)
【義理歩兵自伝(1)はこちら!】
今こうして思い出してもどうやってあの場所で元気に暮らすことができたのかと首をかしげてしまう窓割れアパートで、まだ寒い三月のある日、私は一大決心をしました。
彼が大学を卒業して、正真正銘の無職の平民、将棋の駒で言うならば「歩」となってから間もなくのことでした。
リクルート雑誌で見つけた高級クラブの募集。
そこに面接に行ってみることにしたのです。
歩兵の彼に相談すると、なんと「心配だから自分もそこで働く」と・・・・!
そのクラブの募集案件には、男性社員の条件も書かれていたのです。
いくら世間知らずの私たちにも、それはきっと、ちょっと、まずいのだろうという判断はつきました。
しかし、面接自体も最初なのだし、事情をすっかり話してみようということで話はまとまりました。
歩兵×2、の知恵と勇気を振り絞った決断でした。(笑)
電話でアポを取ってみると、指定の場所で担当してくれる人物と会うことになりました。
自分の鼓動の音ばかりを聴きながら落ち着かずに待っていると、前方からパーマ頭の、ものすごく色白の、黒いスーツを着た男性が、地面からかすかに浮いているような足取りで現れて、私たちが一般的に暗黙の上に持っている´初対面の人との距離感´というものを土足で軽やかに飛び越えて、
「エヘヘへ、待ったぁ?」
と、なぜかまったく楽しそうに見えない満面の笑みを放ちながら言いました。
非常に複雑な気持ちになりました。
とりあえずは堅苦しくない気さくそうな人で良かった、しかしそれが彼に染み込んでいる軽薄さの表面化したもののような、嫌な雰囲気だ・・そして彼の持つ独特のだらしない雰囲気が、この俺をたまらなく不安にさせやがる・・
足早に先導する彼についていくと、クラブの店内へと案内されました。
「座って座って、まだ早いから誰もいないんだけどね。わかってると思うけどあんまり他に見られたくないからさぁ」
わかってると思うけど、とは何のことを指しているのだろう・・・・見られたくないのは何故だろう・・・
彼の言葉のひとつひとつにいちいち不安になりながら、すすめられるまま入口から一番近い座席に座って店内を見渡してみました。
しかし、パツンパツンに張った心の緊張が目視から得られる情報のビット数を著しく落とし、店内に関しては薄暗い、暗赤色、所々が金色である、という程度の認識しか持てませんでした。
先ほどの地面から浮いたパーマ頭の色白男性がすぐに名刺を持ってきて目の前に座り、自己紹介や給与・勤務時間などの雇用条件についての説明を始めました。
色白浮きパーマ「カップルで働きたいって来る人、たまにいるんだけどね。大抵は夜の商売長くて事情のある人なわけよ、君らみたいに二人揃ってこの業界初めての人って今まで見たことないね~、ヒッヒ」
大卒歩兵「そうですよね・・なんとか一緒に使っていただけないでしょうか」
白浮きパーマ「あのさあ、こっちの首が危ないから、他の人には二人がつながってること、隠してもらわないと困るよ~?店の社員がホステスさんに手を出してるのはタブーでしょ。それが最初っからくっついてるとなるとねえ、わかってて雇ったとなるとまずいのよ。隠し通せるならいいんだけどさぁ。それに彼女、お客さんに彼氏いるなんて言っちゃダメだよ?それくらいわかってるよね?」
私「えっ・・・!あの・・・彼氏いません、って言わなければならないのですか?!?!」
浮きパー「もちろんだよ~、当たり前でしょう!それがお仕事なんだから!夢を売ってもらわないとねえ~、イヒヒヒわかる?」
私「嘘でも、そう言うんですね?それは絶対なんですね?」
浮パー「それが仕事なんだってば。だってお客さんがっかりでしょう!ホステスさんは女優なんだから、ちゃんと演じてよ?大丈夫?できるぅ~~???」
私「は、はい・・・わかりました、大丈夫です・・」
浮パ「じゃあ頑張ってもらいましょう、彼女売れると思うよ?ウイヒヒ~彼氏大変だねえ~」
卒歩「頑張りますので、よろしくお願いします」
色白浮きパーマは私にお酒の注ぎ方などの接客方法をレクチャーしてくれ、私はそれを覚えて帰りました。
他のホステスを指名しているお客さんに、自分の名刺を渡してはならない。
お客さんが自ら自分のことも指名に加えてくれるか、指名ホステスを自分に乗り換えてくれるぶんには、問題ない。
ただし、指名に加えてもらった場合、そのホステスのその席の売上は加わったホステスとシェアすることになり、指名ホステスが変わった場合は、売上をすべて持って行かれてしまうということ。縄張り争いのようなものだから、新規客に売り込む方が無難だということ。
こうして一軒目の面接で突如仕事先が決まってしまった私たちは、喜びと期待と不安、それから互いの両親や自分たち自身に対する罪悪感とが一瞬にして最大値となった興奮で、かの窓割れアパートで「やばいね」と数え切れないほど言い合いました。
「やばいね」「うん、やばい」「マジやばいよね」「半端なくやばい。」「やばいとしか言いようがないね」「やばいくらい、やばいとしか言いようがないな」「やば杉やば男だな!」
怖い、でも稼ぎたい。稼いできっと、一緒に面白いことを始めるんだ。
鯛の尾より鰯の頭。その私のこだわりに付き合ってくれた彼への万感の思いで、私は全細胞で武者震いを感じました。
私の責任だ、報いねばならん・・・!
初出勤の日。
衣装は貸出してくれるということだったので、私は普段着でお店に行きました。
ちょっと早めに入りましたが、ロッカーなどについての説明を受けて着替えを済ませ、店内に入った時には出勤時間になるところでした。
ちょっとこのドレス、派手だなあ・・・目立ちすぎないかな、恥ずかしいなあ・・・・
そんな不安でソロソロと階段を下り、そーっとドアを開けて店内を見てみました。
その時に見た光景と、衝撃。
今も忘れることができません。
金色に光る店内にズラリと並んだ、「極道の妻たち」風の貫禄バリバリの、約30名のケバケバしきホステスたち。
高く立ち上がった前髪、大きな指輪の光る指、真っ赤な爪の間に挟んだタバコ、ラメの光るスーツに照明をキラキラと反射させて、のけぞって笑う姿・・・・・
こ、こ、これが、、これがここのホステスたち・・!!!!
圧巻でした。もう、尻込みなんてものではなく、この衝撃の球は「怖じ気」という名のキャッチャーミットにど真ん中ストライク球速150km/h超えでぶち込まれ、あらゆる関節の可動域が通常の10%以下にまで落ち、私はガチガチのマネキンになりました。
挨拶すら・・・怖くてできない・・・・・!
なんとかして、はじめまして、よろしくお願いいたします・・・・と挨拶してみるものの、全員が、無視。
タバコの煙の中で、それぞれのおしゃべりに興じていました。
開店とともに徐々にお客さんがやってきました。
座って数万円、高いお酒となると大変な金額で、最も安価な焼酎ですら1万円を超えるというのに、おつまみを、新しいボトルを、ホステスのためのカクテルを、躊躇なく次々に注文して、飲んで笑ってプラチナカードで支払って帰って行く・・・何故このような取引がわざわざ行われるのか、成り立つのかが、当時の私には根底から不思議なことでした。
初日だったその日、私は4名ほどの団体のお客様の席につくように言われました。
私が椅子に座る瞬間に、お客のひとりが座面にこっそりと手を置いて、私をからかおうとしました。
まだマネキン状態だった私はそれにちっとも気づかずに着席しようとして、その方の手の上に座った瞬間にあんまり驚いて飛び上がってしまい、ちょうど目の前に座っていたお客さんが「あれ~スカートがめくれたよ得しちゃったなぁ~新人さんサービスいいねぇ~」と言って笑いました。
これに耐えがたい灼熱の屈辱を感じ、産毛のようにモツァレラチーズのように安い卵の黄身のように軟弱だった私は鋭利に傷ついて、そのまますぐに失礼して席を離れ、トイレにこもって約2時間、泣き通して出てこられませんでした。
まさに最悪の初出勤で出鼻をくじかれ、髪をお酒とタバコの匂いでいっぱいにして窓割れアパートに帰ってきてみると、部屋はいつものとおりそこかしこに貧しいなりの工夫がいっぱいで、その時の私にはそれがとても慎ましく素朴に見え、私は何が悲しいのかわからないのにものすごく悲しくて、子供のようにわんわん泣きました。
この時、誰もが想像すらしていなかったことでしょう。
このど素人の役立たずホステスがその後三ヶ月で遂げた「変化」が、
35年もの間続いた老舗の高級クラブの土台にひっそりと仕掛けられた、破滅の時限爆弾となろうとは・・・
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