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【往復書簡】間違う権利を行使しろ!

圭吾さん、おはようございます!!
我らのことを、めったに連絡を取り合わない昭和の激渋大親友と称してくださったことを、大変嬉しく思っております。確かに我らは昭和生まれですし、めったに連絡を取り合いませんし、なんならラインですら敬語で話していますが、私も圭吾さんを大親友だと思っております。俺たちゃ激震マグニチューズ!!君風神なら俺雷神!!こうでなくっちゃねえ!!

圭吾さんはストーカーに追われているということでしたが、なんと大変な状況でしょうか。我には追ってくる人はおらず、多くの人に好かれてもおらず、なんなら嫌われている人のほうが多いんじゃないかという気がするのですが、自分はそのことにまったく傷つくことがないのです。嫌われていると知ると、なんなら可笑しさが湧いてくる始末なのです。しかし、そんな我とて、ストーキングされるというのは非常にストレスを感じることだと思います。人生のあらゆる場面において疑心暗鬼になってしまいますので、圭吾さんがなんとかその状態から脱却できることを祈っています。

この書簡をそのストーカー氏本人が読んでいる可能性もあると思いますので、私めからご当人氏にこの場を借りて一言お伝えしようかと思います。
今のあなたを、ご先祖様が見ているぜ。あなた自身も見ているぜ。あなたは自分の中にくすぶっている善良さに気づいていて、まだその自分と手をつないでいるはずなのだから、その手を放さずに進んでおくれ。どうか自分を愛してあげてくれ。あなたが愛さないから、あなたが泣いてるよ。
そして、何より大事なのは、北斗の拳、鬼滅の刃、新少林寺(映画)のどれか、あるいはすべてを、全編読むか見るかするのだ!!わかったな!!

ところで、最近の私は自然とSNSから離れ気味で過ごしておりました。そしてたまにXを開いてみたりすると、これがあれが間違っている、こうしてああするのが正しい、こうやると損、ああすれば得、こうしたほうがフォロワーが増える、こうやったほうが早い、こうすれば健康になる、こうすると寿命が延び、こうすれば早く死ぬ。という、お役立ち情報にあふれているなあと思います。我慢をするな。文章はわかりやすく書け。書き出しで心をつかめ。栄養のバランスの良いものを食べろ。いい瞑想をしろ。いい枕で寝ろ。季節のものを食べろ。神社に行け。

そのひとつひとつを悪いとは思わないのです。うまくいく方法があるなら、どんどんシェアすれば良いと思います。それは親切だし、その人自身にも良いことなのだと思うんです。しかし、なんつーかこう、自分は多種多様なそんなのをいっぺんに大量に目に入れると、煩わしくて、赤血球が迷走して、元気が萎んでくる気がします。

喩えるなら、断食後に有機栽培の野菜のスープから復帰食を始めつつ、チャクラを開くポーズを取りながら、般若心経を写経しつつ、身体じゅうにデトックス効果のある泥を塗って岩盤浴しつつ、大切な人と本音で語り合って、パワースポットのエネルギーを遠隔送信してもらいながら、バッハの音楽でIQをあげつつ、ツボ押しをされているような感じと言いますか、ひとつひとつは良いのでしょうが、いっぺんにやられたら、もうとても息継ぎが出来ない感じがしちまいます。

本当に自分にとって役に立つ大切な知恵や方法というのは、自分のじぃちゃんばぁちゃんや、友達や、近所のおせっかいなおばちゃんや、大事に読んだ本から本当にごく稀に得られることだと思います。そんな風に出会うことのできた、自分ととても縁の深い数少ないものを、自分でじっくりと試して人生を懸けて学んでみる時間が必要だと思います。自分の野生の勘を使って、これこそ試すべきだと感じたひとつのことに賭けて人生を注ぐ人は、千の方法を浅く試す人よりも多くを学ぶと思うんです。

でもSNSを通してこうした正解らしきものを大量に見ていると、なにが良いのかわからないし、全部良いような気も全部怪しいような気もしてきてしまいます。それで、なによりも恐ろしいのは、無数の多くの人がなにもかもをうまくやっている気がしてきて、自分が間違っちゃダメな気がしてくることだと思うのです。うまくやらなきゃいけない、と。
早く、上手に、器用に、エネルギー消費少なめで、頑張らないで、健康に、成功して完璧に愛されて自己実現して尊敬されて人格者として毎日幸せに。そんな風に生きられるはずだと、つい思っちまうような気がするのです。

私は言いたい。んなわきゃねえだろ?!?!と。

俺はそういうのを見ると、あ~いいいいいいいい、いらないわそういうのは。間違わせてくれよ!失敗させてくれよ!不器用上等、失敗上等、俺はいつも自分なりに考えて自分なりに間違っているぜ!!間違わないとわからないじゃないかよ!!と思っちまうのです。私は、思う存分試して間違っていきたいのです。自分にとっては、間違いが生き甲斐で、間違いが人生なのです。失敗するチャンスを、間違うチャンスを、そこからの試行錯誤のジレンマを、自分に与えさせてくれよ。間違う権利を行使させてくれよ、自分でわかる喜びを求めていきたいじゃないかよ!と、心の底から思うんです。

自分は、ある時期は朝から酒を飲んでおりました。いや、知ってやすよ俺だって。良くないよ。健康にも精神にも良くないさ。でもその正解に対して言いたいのです。だからどうした?と。

朝からがぶがぶ酒を飲んで家事をしていると、頭がふわ~っとして、つかの間、母を失った悲しみから距離をとることができるのを感じました。それで私は「ああ、自分はこんなにも弱いのだな」とつくづく思いました。飲みたい人の気持ちがわかりました。お酒が好きだった母の気持ちがわかった気がしました。酒しか友達がいない人の気持ちも痛いほどわかりました。俺は太宰でした。相変わらず人間失格でした。

そうして、お酒は良いものだと思い、自分はお酒に負ける人を決して軽蔑できないな!と思ったら、なぜなのかある時からパタリと飲みたいと思わなくなってしまい、自然とやめてしまいました。

そうした時期を経て自分は、朝から飲酒をして良かったと思っております。そして、朝から酒を飲むことで自分に起こる弊害にも詳しくなりました。これは、結局のところ、「間違いを知ることが出来るという正解の道」でした。遠くイタリアの地で、俺はそのとき孤独に、「見たか…!!俺の正解は俺にしかわからないぜ…!!」と拳を振るわせて(嘘)思いました。

こう考えると、正解ってなんだろう、間違いってなんだろうと思います。それらを隔てる境界線は、その人がなにかを学んだかどうかで決められるもののような気がしました。朝からお酒を飲む、という行為を単品で取り上げたら、良くないことで間違いだと言えるのでしょう。そりゃあそうだぜ。
が、我ら人間の歩む人生を物語だと捉えたら、何ひとつ間違いとも正解とも断言できなくなると思います。この物語は間違いだとか、この物語は正解だとか言えなくなるのと同じように。圭吾さんは、どう思いますか。

俺たちにとって、間違うことほど面白いことはないのかもしれませんね。
間違った時のショック、反省、辛さ。その間違いを正解だと思っていた愚かな自分が、まるで遠い前世の自分のように見えるほど、そこから離れ、別人となり、ひとつ賢くなる瞬間。この歓喜よ!!!
自分の正解を知ることの出来た力強さ、面白み、喜び。こうしたことを、自分の足で間違いをおかさない人間は、知ることが出来ないのだと思います。本気で間違った人間にしか、本気のガッツポーズは出せないのだと思います!!

だから、また俺たちはこの往復書簡で、勇敢に、間違いを恐れずに、なんならそれをサーフボードに見立てて、この小器用で薄汚れた、間違いを嫌い、多様性が口癖の、得だけをしたい人間の繰り出す世界の悪波を、歓喜とともに乗りこなしていきやしょう!!ふるえるぞハート!燃えつきるほどヒート!!おおおおおっ刻むぞ血液のビート!(ジョジョの奇妙な冒険第一部「ファントムブラッド」作中でのジョナサン・ジョースターの台詞参照)
よろしくお願いしゃーーーーーーーーーーーす!!


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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)